30歳過ぎから工学 vol.2

http://d.hatena.ne.jp/j130s/ から移行しました.オープンソースロボットソフトウェア技術者兼主夫. 高校・大学学部文系-->何となくソフトウェア開発業-->退職・渡米,テキサス州でシステムズ工学修士取得,しかし実装の方が楽しいと気付き縁があったロボティクス業界で再就職.現在 Texas 州内の産業用オートメーションのスタートアップに Georgia 州から遠隔勤務.

米国スタートアップ企業での日経誌購入

勤務先は創業ほぼ1年で社員数も (やっと) 10人を越えましたが,いまだ私は唯一の英語非ネイティブ.もちろん日本語使える人も1人だけ,仕事内容も今のところ日本まったく関係無し.そんな中で日本語雑誌の社費購入をお願いしてみたら二つ返事でオーケー来ました.毎号の見出しは訳しますが,お後は翻訳技術でよろしくと.

ボス達を見てるとアメリカの人々は/も業界情報は人伝てで仕入れつつメディアで補完する,くらいなのかと感じています.創業者達みんなオッサンなので,これまでに築いてきた人のネットワーク自体が資源なのかなと.で,地理・文化的に遠い日本やアジアの業界情報はメディア頼みになりがちなんだけど,英語メディアだとどうしても遅れたり薄かったりなので,今回の雑誌購入はそこら辺の情報源として期待されている感じです.この日経 Robotics 誌は,個人的には月刊誌としてはページ数考慮すると割高に感じるけども,そういうわけで情報源への投資には積極的だし,そう考えると別に高額じゃないネ,といったところなのか.

日経 Robotics

元西武ライオンズ投手のご逝去

今年に入って悲しいことにお二人の訃報が報じられた.お二人共に選手時代は私も球場で観客として見たこともあるし,思い出を共有しておきたいと思いました.

左腕のアンダースローの走り的存在と誉高い同氏.
私がその存在を知ったのはプロ野球ファン・西武ファンになって選手名鑑を読み込んでいた1984年か.永射投手の紹介欄には,2年経った当時でも,1982年プレーオフ優勝決定戦での先発登板 (永射投手の登板はほぼ中継ぎ) のことが書かれていた.自分の中では,先発投手は豪球か豊富な球種かを持ってるのが条件だと当時思っていたので,確かに球は速くないし球種もカーブ系しか無さそうに思った永射投手の先発は,相当意外だったのだろうな,と思った.
1985年5月5日のこどもの日の阪急戦,産まれて初めてプロ野球を観戦した試合,中継ぎ登板した永射投手を一塁側内野席で見た時には,一塁側に物凄くインステップしていて,あーこれは TV で観てた時には分からなかったな,こういうのは左打者はきっと大変なんだろうな,と思ったものでした.
同年阪神タイガースとの日本シリーズではバース・掛布を抑えこんでました.第一戦8回にピンチで三冠王バースを迎える場面は,私も他の方も言っているようになんで永射じゃなくて工藤なんだろう,と小学校4年生ながら思いました.
その後トレードで西武を出られてからはあまり追っていなかったですが,つい先日ふと気になって Wikipedia を見て,マスターズリーグにも元気に参加されていたこと,ピンクレディーのサウスポーの元ネタだったことなどを知り,感嘆していたところでした.

1997年対ヤクルトとの日本シリーズ第二戦,ブルペンで投げる森投手の球を見て,観戦していたライトスタンドの応援席からでも球が唸ってそうなのがわかり,改めてプロの投手とか,それを捕る捕手,たまに打つ打者って物凄いな,と思ったものでした.
その後リリーフ投手としての大活躍を経て渡米したものの,登板しないまま退団せざるを得なかったこと,プライベートで結婚の問題が報道されたこと,日本に戻り独立リーグの監督をなさってから西武のスタッフになられたのは知っていました.
が,誠に失礼ながら正直言うと,長髪の風貌やや豪球一直線のスタイルなどから,良い印象を持っていなかったのは事実です.今回お亡くなりになって沢山記事を拝見し初めて,多くの人に愛されていた方であり,米国で相当な失意を経たであろう後に,指導者という新たな職に真面目に取り組まれ,プロ野球のチームにも請われて復帰しまさにこれからというところだったのを知りました.偏見を持って見ていたことがまったく恥ずかく,申し訳ないです.

選手として指導者として夢を見させてくれたお二人のご冥福をお祈りします.

古川康一先生の個人的思い出

2017年1月末,古川康一先生が急逝されました.私は米国で育児等しており,急遽執り行われた葬儀に駆けつけることも叶わず,当日は20年来の思い出を日記にして先生を偲びました.日本語だと読んでくれない妻 (や他の家族) とも共有したいと考えたのと,そもそも計算機科学の分野において世界に功績を残された古川先生にしては英語の記事が少なすぎるということに気付いたのとで,日記はここに英語で書いたのですが,日本語でも読みたいと要望を頂いたので次の通り訳しました.

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先週,大学学部時の学習アドバイザが亡くなった.二ヶ月前に最近の研究成果をやっと書籍として発売され,研究室 OG・B にもその連絡を頂いたばかりで,早速次の目標に向かっておられる様子を伺い知れ,"さすがお元気な先生,今年も張り切っておられる" と,ある意味いつもの先生だと,特段気にとめなかった,その矢先だった.先週は訃報が届いた後,卒業生グループは悲しみにくれる間もなく御葬儀のお手伝いに奔走された様子で,私も住んでいる米国からできることをしたのだが,色々思いが巡る中で,自分のこれまでの人生で古川先生とその教え子グループメンバとから受けた影響の大きさに気付くこととなった.

ここに自分のできる限りの古川先生の記憶を綴っておく.そうこうしてるうちにだいぶ長ったらしくまとまりのないものになってしまったが,公式追悼文でもなく (先生の下で博士号を取られた先輩方を差し置くつもりも毛頭ないし),また内容に誤りもあるかも知れないのを予めご容赦頂きたい.本文は,極めて率直な,個人的な先生との記憶である.英語で記しているのは,日本国外の先生のコラボレータの方々にも届けば,私のちっぽけな経験でも在りし日の先生との御記憶を少しでも彩ることに助力出来ないか,と考えたのと,あとは個人的で恐縮だが私の米国人家族に,古川先生の薫陶のもと自分が20代・30代何をしていたかを知ってくれればという思いからである.いま40を過ぎ,自分なりにあっち行ったりこっち行ったりしながら何とかやっとこさ芯ができてきたキャリアにはある程度満足しているが,ここまでやってこれたその大もとには先生との出会いがあった.

まず,日記を書き始めて気付いたのだが,世界の研究コミュニティでの存在感に反し,英語で書かれた先生の紹介がネット上でほぼ見つからない.これはネットが隆盛した90年後半以降よりも前から活躍をされていた研究者の方には仕方のないことなのかも知れない.本の中身を検索できる Google の機能を使い,"The Quest for Artificial Intelligence" という書籍中にあった下記紹介を引用させて頂く (日付は著者が更新).慶応ご退職が2008年だったことを考えると少なくとも過去10年以内に書かれた書籍ということで,ここで紹介するのも妥当かと思う:

Koichi Furukawa (1942-2017), a Japanese computer scientist, was influential in ICOT's decision to use PROLOG as the base language for their fifth-generation machine. Furukawa had spent a year at SRI during the 1970s, where he learned about PROLOG from Harry Barrow and others, Furukawa was impressed with the language and brought Alain Colmerauer's interpreter for it (written in FORTRAN) back to Japan with him. He later joined ICOT, eventually becoming a Deputy Director. (He is now an emeritus professor at Keio University.)

上の内容に微力ながら少し付け加えると,直近の20年間ほどは"スキル・サイエンス"という,古川先生とお仲間が提唱した学問分野にシフトされていた.誤解を恐れず要約すると,人間の複雑な物理的動作を科学的手法により解明しようとするもので,古川先生の場合はとりわけ自ら被験者となり,御自身のチェロ演奏力向上に役立てられていた (先生のチェロ好きは学界では有名な話らしく,事あるたびに会議でも演奏されていたようだ.Jacques Cohen,Alan Robinson,Jack Minker らと "Logic Programming Trio" なる geek 極まりない名前の三重奏グループも結成しておられた).

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Brandeis 大学の Jacques Cohen のサイト上の幾つかの写真をここに引用させて頂きます.

さて,ここから個人的体験を綴ることになる.再度のお願いとなるが,先生の優秀なお弟子さん方とのやり取りとはまったくかけ離れたものであるのが申し訳ない.私が初めて先生にお会いしたのはおそらく 1997 年のこと.当時の環境情報学部では3年次進級とともに"研究会"という授業 (研究室に所属し研究支援活動を行い,単位も貰えるという日本独特?の仕組) が履修可能となるのだが,当時の私は真剣に進路を考えたこともなく,サークル等音楽にばかり夢中だった (日本の中の下の学部生の典型?できることなら当時の自分にきつくお灸をすえたい).学部の売りであった熱心なコンピュータ教育のおかげもあり,情報技術は好きだったので,コンピュータを使いながら音楽に関係することが出来そうらしい,くらいの軽い気持ちで古川研究会を受講することにした.3年次に何をやったか殆ど覚えておらず,おそらく授業も半分くらいしか出席しなかったのではと思うが,それでも古川先生は優しく接してくださったことだけは覚えている.

当時は気付かなかったが,学部生をはじめ,進む道を決めかねていることも多い研究室所属学生を導くのも役割の一つであると先生はお考えだったように思う.当時既に先生御自身は後にスキルサイエンスと命名される分野により傾倒されていたように思うが,当初の動機とは違い私はなぜか純粋なコンピュータ・サイエンス的なものにより興味を持ったところ,教え子にはもともとの先生のご専門であるハードコアな機械学習の道に進んだ方が何人かおり,特に嶋津恵子先生尾崎知伸先生に大変な指導を頂くこととなった.左右も分からない中,最終的に学部卒業時には,人工知能学会研究会予稿の執筆にも関わらせて頂いた.計算機科学,人工知能のごく基礎的なところすら身に付けておらず,その時題材にした決定木アルゴリズム (C4.5) のグラフィカルな出力が視覚的に面白くてなんか可能性を感じる,とかその程度の興味だったのだと思うが,何にせよ,後にちゃんと工学へ進んでみたいと思えるだけの刺激をこの時に頂いた.

上述した私のメンターの方々も,御弟子さんとして当たり前だが古川先生に助言を乞うており,そういう会話を傍目で眺めながら,私もようやく仕事人の会話を学び始めた気がする.一見のらりくらりとお話になるこの方が (大変失礼...),世界の計算機科学界で一流を張っておられたことを知ったのも,そういった会話を通してであった.エージェントアプローチ 人工知能 第一版 (AIMA, Artificial Intelligence: A Modern Approach. 1st edition) というアメリカをはじめ後に世界的に人工知能の教科書のスタンダード的存在になる本があるのだが,1997年に発刊された日本語訳書を手掛けたのが古川先生のチームだった.しかし学部生当時の私は AI の教科書なぞ気にかけるはずも無いから,研究室の書棚にあるやたらと分厚い (約1,000ページ) 本はどうも先生達が訳したらしい,というのは知っていたが,自分はこんな本には生涯を通じ縁がないと 150% 信じて疑わなかった.まったく,運命はわからないもので,10年後に後述の通り私は米国の工学大学院に留学するのだが,その時の授業で同じ本の第三版 (原書) を購入するはめになるとは (しかもかなり読み易く勉強になった)!今回,同書原著者の Dr. Stuart Russell (UC Berkely) に訃報をお伝えするとすぐに,古川先生がバークリーを訪れた時や御自身が学会で東京に行った時の思い出を寄せて下さり,また葬儀に献花もして下さった.

エージェントアプローチ人工知能 第2版

エージェントアプローチ人工知能 第2版

大学の夏季休暇中には毎年,長野の先生の山荘で合宿をしていたようである.ようである,というのは,私はそういうわけで学部の最後の一年間しか真面目に勉強しなかったため,一度しか合宿におじゃまする機会がなかったので,先のことも後のこともよく存じないだけである.先輩方のお話を伺う限りだと,昼間は論文等資料を大量に読み込むハードなものだったらしいが,奥様が食事を振る舞って下さりそれはそれはランチもディナーも満足させて頂いたのは覚えている.いま曲りなりにも工学の道に進んだ者として,夏の数日間を涼しい山の中で勉強だけしながら過ごすというのは,贅沢極まりない.後悔しきりである.

2005年から数年間,慶応大学に戻って仕事をしたのだが,上記の嶋津准教授のチーム所属となったこともあり,古川先生には頻繁にお目にかかった.この仕事は自分にとってとても試練で,同じフロアの方々によくよく気遣われたものだが,先生が三田のオフィスにおいでくださる時,オフィス入り口までお迎えに行き解錠するのは私の役目で,いつもあのはにかんだような,御自身を卑下されたような独特の表情をされていて,"いやー傘が壊れちゃいましてね,参りましたねー" 等と和ませて頂いた.その後ランチを3人+で,若者だけでは行けないような店に連れてって頂くのが常だったが,自分も仕事人としても5年以上経っており,"同業者"としての実のある会話ができても良かったはずだが,ついぞそういう機会は私自身はなかった気がする.私の程度の低さ故に特に絡むことができる要素も必要性もなかったのだろう.ただ,難航するプロジェクト運営について上司から相談は受けておられたのであろう,部下である私にも,言葉少なで穏やかな内にも厳しさもって諭して頂くことは何度かあった (当時の私は自信を失っていたので,そんな自分に言葉をかけて頂けるなんて,諦めちゃいかんな,と思った).あと完全に個人的想像に過ぎないのだが,1980年台の政府の ICOT プロジェクトのリーダー的役割という難職を終えて後に慶応に着任されているので,先生のあの超然とした雰囲気はきっとその余韻のようなものもあるのだろうとお察ししたりしていた.

2008年に私は今後数年間を将来のために立て直すことに使うと決め,仕事を辞し工学大学院に進学することにした.出身である慶応の環境情報学部は,所謂文理の垣根が無く,学部生はかなり自由に自分でカリキュラムを設計できる反面どっちつかずにもなりがち・私はまさにそうで,工学の基礎も弱いままだったため将来が不安だった.またどうせなら幼い頃から何となくの憧れだったアメリカに行ってやろうと思った.米国大学院の受験にはもれなく数通の推薦状が必要で,古川先生にそのうちの一通をお願いした.先にも書いたとおり慶応学部生時代はからきしだったし,その後の慶応の仕事でも特に印象付けるほどの活躍はみせていないはずで,そんな教え子とも言い難い卒業生に推薦を依頼されて果たして先生はどう思われたのだろう,というのは,後々に盃でも傾けながら伺ってみたいことの一つだった (それはとうとう叶わなかったが…).何にしろ御自宅近辺のベーカリーでお目にかかり正式に依頼をさせて頂いた際には,難色を示されることもなくただ頷いて下さり,当時私が興味としてあげていた宇宙開発にちなみ,御自身が関わられた JAXA のプロジェクトの話をして下さった.そしてママチャリをぎこちなく漕ぎながら帰っていかれた.

先生に初めてお目にかかってから20年経ち,私はロボティクス業界で,ゴリゴリの理工学出身な人達に囲まれながらソフトウェアエンジニアをしている.こんなことは当時はまっっったく想像すら出来なかったし,10年前,工学留学をおぼろげに着想し始めた頃でもいまこの立ち位置は予想だにしなかった.2013年には縁があり東京でロボティクスの非営利企業の起業に関わった (ほぼ二期務め2017年4月に退職).起業したことそれ自体には自分の中では特に誇りとかそういうポジティヴな感慨はまったく無かった・無いのだが,なぜか古川先生はたいそう激励下さったのを覚えている.今自分なりに振り返ると,20年前に古川研究会を履修希望した時のどうにもこうにも目星がつかない輩が,どうにかこうにか自分で歩いているのを喜んで下さったのだろうか.

今回こうして振り返ってみて気づき驚いたのだが,そも根無し草だった自分が工学方面に向いていったこと,大学院に行こうと向学の意識を持てたこと,どうせなら米国に行こうとチャレンジできたこと,これらは20年前に古川先生と出会い,お弟子さん方含め交流させて頂いてなければこうなっていなかっただろう.左へ右へ往ったり来たりでやっと自分も社会の人になってきた気がするところで,やっとそういった "大人の会話" もさせて頂くことができるかも知れないと思っていたし,きちんと御礼をお伝えし,これから少しでもお返ししていけるのかな,と思っていたところだったのだけど,お話ができるのはもう少しだけ先になりそうか.ご冥福をお祈りします.


2015年に嘉悦大学を退職されたのが最後にお目にかかる機会とは,思いもよりませんでした….

或る家庭の家事事情と父の気付き

子供は本当にほんとうにかわいい.そんな子供一人を満足に育てるのも亦,簡単ではなさ過ぎる.
子を無事に育て上げることそのものが人生の夢・目的,そういう人が社会の大半を占めたような時代があったというのも,子を授かった今ならなるほどなあと頷けます.

一方で親の夢=子供,でない場合,何らかの取捨選択が必要になる.

うちは妻の仕事を最優先した形です.というかスケジュール等の融通効かない仕事なので優先する以外の選択肢が無かった.何しろ出勤は朝6時前,休日は10日に1度くらい,週に2回は帰宅が翌日午後 (よく車運転して帰ってこれたね,といつも思う)*1.病欠等するには代役をあてがわないといけないし職歴にも響くらしいので,39℃あっても解熱剤飲みながら夜勤している (ウーム...).

だもんで子供など家に有事があれば私が対応するし,私はそれができるような仕事に就く.家事は基本"オレ"の仕事.男子厨房に仁王立つべし.妻が仕事を得たからいまの街に引越してきて,とても良い街なものの,唯一の不満は私の分野の仕事があまり無さそうなこと (なので遠隔勤務も必然.これがまた普通じゃないわけですがそれについてはまた今度),とか.

少なくとも私の視点から見れば,私は結構多くを諦めています.もともと仕事にすべての時間を捧げても惜しくない質なので (そうでもなきゃそれこそこのブログで以前まで書いてきたような,30歳過ぎで仕事とか全部やめて前例ない感じの工学留学とか,しないでしょう),つらいです.

しかし,家庭を持つ前の自分の考え方の方が,むしろ普通ではなかったんですね.信仰の話はここには多く書きませんけども,自分は "生かされている" と真面目に思うようになって以降,それまで持ってきた多くの考えは,産まれて以降のちっぽけな経験の中で獲得した自分一人のエゴに過ぎないのでは,と思うようになった.たぶん実際は,自分はもっと大きな社会・繋がりの中の一員で,役割は既に用意されていて,いま家庭を持ったことや,家庭内での自分の役割も,そうやって決まってるんだろうと.そう気付くと気が楽になって,今に至ります.

40代は仕事にも脂が乗り切る時と巷では言うので,むしろ少なくとも労働時間数では後退してるのは焦りますけど,経験は時間の長さじゃなくて深さだよと.

*1:ちなみに彼女の名誉のために…子の食事は95%彼女が作ってるし,仕事してない時間のほぼすべてを子供に割いてくれている.

日本国内での駅伝ブームと国際的競技力低下の問題がどうでも良く思えるようになる記事

#競技会の開催状況の都合上,以降は断り無い限り男子競技について書いています.

長距離走好きから始まった陸上競技ヲタ歴30年弱です.箱根駅伝等,日本の長距離走競技文化には最初10年強どっぷり浸かりましたが,おそらく留学開始した8年前あたりでぱたっと興味を失い,以降箱根をはじめ日本の駅伝の結果をチェックすることすら無くなりました.私なりの理由:

  • トップレベルの競技会に関して,日本国内でトップ駅伝競技会の注目が増す一方だった割に,国際大会で活躍する日本人とくに男子はむしろ2000年以前に比べ減った.従って駅伝競技会が競技力向上に貢献しているという風には,素人目には見えない.
  • (最早一般論だが) 個人的に日本国外でネタにならない事象について知ることは,優先度が下がる (言わずもがな,日本国内で盛り上がるトップ駅伝競技会は国外では知られていない).
  • 箱根駅伝について個人的にいうと,ずっとファンだった順天堂が弱体化した (´・ω・`).
  • 単純に,日本国外に住んでいると情報が限られる.2大誌月間陸上競技陸上競技マガジンが手に入らないのは大きい.生中継も見られない.


色々書きましたが1・2番目の理由が表・裏向き共に大きいです.競技の拡大のためにメディアに乗るのは重要なのは言わずもがななので,箱根駅伝を集大成とした学生駅伝が一般の注目を浴びるまでになったのは陸上競技会全体として商業的に大成功だと思います*1.従ってその点で言えば,スター選手を"ネ申"扱いしてみたりする行き過ぎな報道に対しても,うーんとは思いつつ目を瞑れます.しかしながら,日本国内の競技会で至高レベルで評価された選手が,五輪など海外の競技会に出ると,トラック競技では予選通過が精一杯,予選のないマラソンでは10位にも入れない,という状況が続くと,あれ,あれだけ日本で強かった選手が世界では片手で捻られてる…,"ネ申"じゃなかったんでしたっけ?と,残念な感想を持ってしまっても仕方のない状況.

日本の長距離が世界的に強かった時代があるのは事実.80年台にはマラソン世界記録上位に何人か名を連ねたし,91年世界陸上 (谷口浩美),92年バルセロナ五輪 (森下広一) では異なる選手がメダル獲得し,強いなと思わせる結果を残しましたが,以降は銅メダルが2回あるのみに留まっています.

ちなみに女子は,2000年シドニー (高橋尚子)・2004年アテネ (野口みずき) で五輪二大会連覇,高橋選手は記録開始以降はじめて女子として2時間20分の壁を破り,90年台前半以降ほぼ毎回世界大会のマラソンでメダル或いは上位に入り,日本選手が劣勢と思われるトラックの長距離種目においてすら存在感を示しています.また名を連ねるのは毎回のように異なる選手で層も厚い印象.そして,箱根のように"国民的"に盛り上がる成人以上の駅伝競技会は女子には無いと言ってよいと思います.

特に箱根駅伝というシロモノは,元々の目的が国際競技会で戦える選手の育成ということで,当初の数十年前の目的は達成しつつも,現代の国際的状況には合ってない (これは色々な人が批判もしてると思いますが) と思われても仕方が無いでしょう.

書くの疲れてきたのでいきなりまとめますが,こういう状況で個人的になにか日本のトップ駅伝大会に興味が持てなくなってましたが,今回の記事 "海外記者が断言。日本ほど「ランニング中毒」な国はない" を読んで (本を読んだわけではないです),なんか心が収まりました.長距離走はもはや日本では文化になりつつあり,英国のクリケットみたいな存在だと.それであれば,楽しんだり,精神的な充足が成されればよく,国際競技会でウンタラカンタラとか言うこともないのかなと.

メデタシメデタシ.

*1:競技主体は学校なので,商業的というのは自分で言ってて変にも感じますが.

西口投手引退

しばらくバタバタしてて日本のニュース見てなかったら (というかそもそもこのブログも一年以上書いてなかったらしい),西口 (文也投手,プロ野球西武ライオンズ) 引退してました (´・ω・`).

ついぞ目の前で勝利投手になるのは見られなかった.

惜しかったのは1997年対ヤクルトのオープン戦,ホージーwに一発浴びて0-1敗戦.ちなみに同年の日シリも両チームの対戦で,直接見てないが第一戦は似た感じでテータムに一発喰らって0-1 (ヤクルト投手は後に西武で引退する石井一).観戦に行った第5戦は確か3回持たず KO だった気がします.

その後もどういうわけか私が球場で見る度にメッタ打ちでした.日公のビッグバン打線オバンドー・ウィルソンに連続場外ホームラン喰らったり..(ちなみにその試合の捕手は和田一浩).最後に見たのは2014年5月の西武ドーム対巨人,劣勢の8回に中継ぎで出てきて,球のスピードあるなあと思っていたがストライクが入らず四球の連発で最後はセペダ?に一発くらい1イニングで5失点とかで,その年の最後の登板になったはず.

世間ではやたらとノーノー/パーフェク投未遂で記録に残る投手,とかってことになってますが,西武ファンとしては20年在籍し続けた宝のような存在で (20年ぶっ通しで西武だけに居た選手って,おそらく他は伊東勤捕手くらいでは?),好調だった2011年に182勝目をその年の11勝目で挙げた時は,いよいよ200勝いくか,と思ったのでした.そこから何がどうなったか情報が限られるファンとしてはわからないんだけど,年齢と体力というのは一流選手にとっても大変な問題なんでしょうね.

初めて西口選手を知ったのは新人の年のシーズン最終盤に完投 (完封?) 勝利を収めた試合のニュース.凄い軽くて動きの大きな投球フォームに,何か得体の知れない感じを覚えました.翌年の大活躍によってファミスタでもの凄い曲がりの大きい変化球が投げられるようになってて,ゲーム上では酷使しました.1999年に松坂投手が入団しても東尾監督はエースはオツ,と言っていた通り大事そうな試合はしばらく西口でしたね.

あと,個人的には一流の活躍をした選手が脇役に回りつつもずっと現役を続けるというモデルがとても良いなあと思っていて,最近は40過ぎて脇役で頑張るかつての看板選手が多くて凄い良いと思うんですが,西口投手もまさにその口ですね.どう見ても先発型でましてや200勝が近かった彼が,勝利投手になる確率が低い中継ぎを買って出るという姿勢に,自己記録以前に野球というスポーツ・仕事に対する誇りのようなものを勝手に感じてました.

[robotics] 起業一周年

先日2014年8月8日は私達の興した協会の一周年でした.一年間なんとか持ち堪えることができお客様はじめ周りの方々に感謝するばかりです.そもそも起業することにまるで興味がない人間でしたが,そういう状況になったため頑張ってみています.なんとか運営できているのは他の創業者達のおかげ.

個人の話としても,この一年間はこれまでの人生でもひときわ変化ばかりでした.とりわけ,一生涯に渡る決め事を三つも行った:

  • 生涯の伴侶を得る.自宅は米国,仕事は東京なので,日米間を行ったり来たりしています.
  • 創り主を信じるに至る.
  • ロボットを一生の仕事と決める.
  • 屋根裏のハクビシンとの格闘,意外な結末

最後のはどうでも良さそうですがw,40歳を目の前にして新しいことばかり,日-米往復,東京-栃木の往復 (日本にいる間は実家から東京のオフィスに行ってます) など,めまぐるしい毎日.朝起きた時に今自分がどのタイムゾーンにいるのか,どの県にいるのか判らなくなる時はしょっちゅう.

ロボット業界に転身してそろそろ五年経ちますが,この一年の仕事は産業用ロボット方面で,これまで扱ってきた技術ともまた違っているので日々勉強です.この一年で教科書何冊か買いました*1.ロボットは極めて工学的なので,この業界で周りで仕事してる方々達も,高校・大学と数学は学年トップレベルでした,みたいな人ばっかりで,かたや自分はこのブログタイトルでも分かるように30歳過ぎて工学に転身した身*2.周囲に付いて行けてるのかすらアヤシイですが,一方で,自分みたいな人でも居場所はあるのかなと;どんどん先に行きたがる秀才な人達があまりやりたがらない細かい仕事を,盆栽な自分が怠けずにきっちりやることで,業界の穴を少しでも埋めて来れているかなと思っています (そしてそういう細かい部分が,システムを実用的にするかどうかにおいて結構大事だったりするのかも)*3

そして今やっていることを生涯の仕事にすると決めることもできた一年でした.秀才達とは脳の作り/センスが違い過ぎるので絶対追い付けないと気付いたけど,経験を重ねることでソコソコまともなロボット屋になれるかも,という期待を持つのに十分な経験を,この十二ヶ月で踏むことができた.33歳で仕事を辞めて工学留学した時もその後も暫くの間は,将来腰を据えて何かやるようになるのかどうかすら見えていなかったですが.いろいろ運が重なり,これ以外あり得ないだろという状況に来れた;ロボット界で (工学界で?) Isaac といえばアイザック・アシモフですが,世界のオープンソース・ロボット業界で Isaac といえば何番目かに自分が想起してもらえる状況 (含む大妄想).あーでもないこーでもないと試行錯誤し,地を這うような毎日ですが,そのくらいやらないと自分ごときには見えて来なかった結論でした.

地道にあと40年やっていけるよう祈りつつ.2054年にはいろいろどうなってますかねー.

或る蒸し暑い日本の夜,人知れず実家の壁でアブラゼミが大事な時を迎えていたらしいです.地下に七年地上に一週間.この一途さに比べればふらふらしてきた自分の人生なんて恥ずかしいわい.

*1:これまで工学の教科書といえばアメリカの分厚いのばっかりでした;説明が十二分にされてるので何度も読めば結構いろいろ解るんですが,ささーっと読むには長いし,何しろ重たい (物理的に).日本にいるので最近日本語の教科書も買うようになり,コンパクトにまとまっていて使い易い・一方深く理解するには他の資料をあたらないといけないことも多い,というのを発見しました.一長一短ですね.

*2:日本は幸か不幸か企業のソフトウェア開発者採用が理工系バックグラウンドを要求しないので,いわゆる文系出身でエンジニアのタイトルが付く方がとても多い.その是非はここでは問いませんが,ロボットのような物理を伴うシステムの開発業界は,これまでのところは少しも数学知らない人が開発できるようにはあまりなっていない.ただし,基幹系,WEB 系等の大きなソフトウェア分野がそうなったように,ロボットソフト分野も今後は間口が拡がっていくと思います.そうならなくてはならない.

*3:よくよく見てると,秀才な人達が集まる組織内においても,同じ力学は実は働いている;秀才達の中でも秀才階層が発生し,微妙に役割がわかれていくようです.去年までシリコンバレーのトップロボット企業に在籍できたのはそういう観察をできた点でも自分には意味が大きかった.