30歳過ぎから工学 vol.2

http://d.hatena.ne.jp/j130s/ から移行しました.オープンソースロボットソフトウェア技術者兼主夫. 高校・大学学部文系-->何となくソフトウェア開発業-->退職・渡米,テキサス州でシステムズ工学修士取得,しかし実装の方が楽しいと気付き縁があったロボティクス業界で再就職.現在 Texas 州内の産業用オートメーションのスタートアップに Georgia 州から遠隔勤務.

日本語でのベビーシッター募集準備

外国で同じような需要を経験した方がいらしたらどのようにしたか教えて頂きたいです.

# 米国でのある日系人家族での日本語の需要

どこの親御さんもそうでしょうが,うちも子らの言語教育については思いが沢山あります.特に母国外で生活されてる方なら必須となる現地語以外に母国語の教育をするか否か,するならどの程度期待するか,考えることは増えるかと思います.

うちは米国以外に住むことは妻の仕事柄あまり考えにくく,子らは英語を母国語として成人するのはほぼ確定しています (勿論,親が成人まで持っていってあげらればの話...先は長い,長すぎる).いっぽう両祖母父ともに日本に居り,会うために日本に行く機会は多くなるでしょう.また私の方の親は英語をあまり話しませんし,私達は親として子らに日本文化をより理解して誇りに思ってくれると嬉しい等,日本語を身に着けて欲しいと思う動機には事欠きません.

# ある日系人家庭での日本文化教育の問題

特に国際結婚等の状況下での,幼少期からの複数言語教育は近年の研究結果等から推奨されてきているようですが (参考:babycenter.com),子供にとって母国語の習熟でも素直にはいかないのに複数言語を同時に習得するのが困難を伴うのは想像に難くないと思います.あくまで私達が見聞きしてきた例をもとに考えると,子供達の第二言語としての日本語の習得は当初思ったより遥かに難しそうです.御両親ともに日本生まれ・育ちのご家庭のお子さん達が成人してカタコトの日本語しか話さない例を何度も見てきました (なおこれには御両親自身が受けた教育レベルも必ずしも反映しないようにも思える).逆の例,つまり両/片親が日本人なご家庭のお子さんで日本語が (ある程度) 流暢な例も多く見てきたのも事実ではあるものの,親としてかなり"うまく"やらないとこれは大変そうだぞと危惧しています.

# どうのようにすると"うまく"いくのか?

各家庭により様々な意見がありそうですが,今の所うちでは次のような方向に行こうとしてます:

  • 家の中では日本語中心.子らも妻も英語の方が楽だが,できるところまで日本語でやり遂げる.ベビーシッター等子らと接する時間が長い方はできれば日本語だと尚良い.
  • 家の外で日本との接点を作る.
    • 現地の日本人コミュニティ ("日系コミュニティ" も経験済みでとても代え難い経験をさせて頂いたが,この目的には不十分),お友達作り,イベントへの参加.
    • 日本の祖母父達を定期的に訪れる.米国では夏季休暇が多くの学校で5月末くらいから8月中旬程度までと長く,日本の学校に短期入学も認められれば時期的には可能.

夫妻の仕事,生活状況と考慮し現実的な範囲を見つつ,それぞれの想いも踏まえてこんな結論になってます.変わっていくかもだけど.

身近な成功体験にかなりヒントを得ています.妻達姉妹は,毎夏を祖母父のいた鹿児島県の島で過ごし,現地の小学校にも夏休みに入るまでは通わせてもらい,友達もいました.いわゆる日本語補習校 (土曜日終日つかって?日本の教育カリキュラムを教える.日本への帰国を検討している子息向けか) には通わない等,米国では家庭以外では日本的な接点はあまり無かったはずにもかかわらず,話し言葉としての日本語にあまり不自由しておらず英語訛もまったくありません.なにより日本文化への想いが強い.

# 課題:日本育ちのベビーシッターを募集したい

家の中での子らへの日本語の接点を増やしたく,家事面での現実的な需要と合わせて,日本育ちのベビーシッターだと嬉しいかもという想像をしています.

現地で見つけるというのも始めましたが,NY や LA,San Francisco 等一部の超大都市とは違い,私が住むのは日本人がそれほど多く住む場所ではないので,難しそうか.

日本から一年間雇用して渡航してきもらう制度の利用も検討しています.au pair という世界に広まっているベビーシッター専門の業態があり,手続きや問題解決を代行してくれて便利そうですが,仲介業者によってはホスト家庭の文化背景が応募者のそれと異ならないといけない (つまりベビーシッターとホストが日本語で会話できてしまう環境への派遣は NG) ところもある.また,Covid 渦中で来てくれるのか,依頼するのは道義的にありなのか.

au pair だとフルタイム雇用が必須となりますが,au pair 以外のオプションについてはパートタイム雇用も検討中です.いかんせん要件がまだ流動的.

 

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友人が作ったどうぶつひらがなポスターはかなり効果的.2才児も大好きです.子ができる数年前に買っておいたけど損しなかった.

 

筑波大学男子の長距離走が熱いらしい

日本の長距離走が駅伝に過熱していることには,自分なりにケリをつけたものの,それ以降特に興味が復活していませんでした.しかし最近記録面で進歩が著しいらしく,高校大学実業団の各層で新記録が沢山出ているそう.Google Assistant に陸上競技を入れていてかつ日本人なのも判っているためか,日本の陸上競技のお勧め記事が毎週出てくるので知りました.
あと数日で日本では箱根駅伝ということで,少し状況を覗いてみたら,贔屓の順天堂が予選会の過去最高を更新したとかを差し置き,数多あるニュースの中でコメントせねばと思ったのは筑波大学のここ数年の躍進.義家族が筑波大に縁が深く私もほぼ毎年筑波に滞在するのもあるし,医薬理工系の学生さんが大活躍してたりして,なんか幾つも興味が湧く点があって色々見て回ってしまった.

  • MVP にあたる金栗四三杯のモデルの金栗氏,NHK 大河ドラマいだてんで脚光を浴びたが,そういや東京高師,現筑波大学の卒業か.なおドラマは米国からでも観てました.視聴率が低迷したり色々批判もあったようだけど歴史に残る快作だったと思う.
  • 2019年には予選会を勝ち抜いて箱根本戦に出場してたとのこと.医学部の5年生も出走したとのこと.5年生ってもう病院に実習に出る頃ですよね?一体どうやったらトップレベルの競技力を維持できるのか?異次元すぎる.
  • 私の母校宇都宮高校を創設以来初めての県高校駅伝で上位に導いた時のエース平山大雅君が2020年に入学.
  • 2020年は予選会を僅差で惜しくも敗退.しかし個人10位以内に2人入賞.その内のひとり猿橋拓巳選手は理工学部.同じ理工系としてこれまた異次元すぎる (競った相手の贔屓の順天堂のこれまた異次元な新人が20歳以下ハーフマラソン日本記録だったというのも…理工系でもトップ競技を争えるのかと).
  • そもそも長距離部門?の監督が弘山勉氏になっていたらしい.栃木県男子長距離走のスターのお一人.いつぞやの福岡国際マラソン?で当時世界最高記録保持者のデンシモとラストまで競ったのはまだ覚えてます.その後ご夫人・弘山晴美氏のコーチに専念するため引退し,彼女の引退後に40歳前後でお父さんになられたはずというあたりには親近感も湧く (でも監督とかしてたら流石に主子育ては勉氏ではないのかな).

過熱する日本の駅伝人気の渦中にある多くの学校には,誤解を恐れずいうと,古くから認知されている大学にとっても新しい大学にとっても,駅伝 (や他のスポーツ) には受験者獲得のための広告塔という側面があるんだろうと察します.競争のために,多くの学校では授業より競技を優先できる環境になってることと思われる中,筑波は多分そうではないし,ましてどこの大学でも医薬理工系は実習系無しに学部を卒業できないだろうからどうしても課外活動の時間は少なくなる.そもそも長距離走は長い距離を踏んでなんぼなところがあり当然拘束時間は (少なくとも他の陸上競技に比べ) 長めになり,"文武両道"に不向き.更に筑波は国立大学で,推薦入学などの学力試験が簡略化される制度も無いでしょう.色々な制限の中で勝ち上がったことの価値は大きいよなあと素人ながら思います.

米国から日本のニュースを気にし続けるのは言うほど易しく無いんですが,平山選手が在学している間忘れずに注目を続けようと思います.

大学学部の情報技術教育 2020 年版

大層なタイトルつけてしまいましたが,ただの随想です.私も学部を過ごした慶応大学藤沢キャンパス,通称 SFC の情報技術教育について現教員の方々が今後に向けて綴った記事

WindowsMac の自分所有機を持込み,人口言語の授業は Python らしい.教室から計算機を全撤廃するのは,まあそうなりますよね.

私が入学した1995年当時は,計算機環境自体が滅多になかったのもあり,田舎から出てきた20歳というのを差引いても,革新的な環境だったのでは.端末はほぼ UNIX,Email は Emacs 上で MEW で読み書き,文書作成は LATEX.個人所有のコンピュータ持っていた人は WindowsMacGUI のツールを使っていたけど,しばらくコンピュータ買わなかった自分はテキスト基盤がすべてだった.学部1,2年の情報処理の授業は専攻無関係に全員が C でプログラミング.工学部かよ,と.裏側は NFS で,学内でのファイル共有は,クラウドを基にするのが多そうな今風な社内システムより簡単だったのでは?とか思ってしまう.何でかうまく説明できないが,コマンドで一意に記述できるからか? (実際,数年前にシリコンバレーインターンした "ロボティクス業界の Google" と言われた企業でも NFS が構築してあり,10数年ぶりに触ったけど改めて使いやすいなあと思った.でも Google Drive もあったので皆そっち使ってたけど).

私はその後卒業して暫くは,企業勤めの環境の影響もあって Windows でしたが,2008年に学生に戻り,Windows ラップトップを学食で盗まれ,バイトしてた研究所の業務の影響でそれ以降主端末を Linux に移行し,未だにテキストエディタEmacs です.割と保守的な私が抵抗なくそんなことできてるのは間違いなく学部時の刷り込みのおかげ.

コンピュータ自体が珍しかった20世紀末と今とではまったく事情が異なるけど,先生方は大変でしょうね.オンライン授業/MOOC も充実してきて,大学教育自体も問い直されかねない状況ですし.

当時既に,コンピュータを使いこなして問題発見・解決の道具とする,という考えは刷り込まれてた気がするけど,自分は当時はコンピュータ環境の理解で終わってしまった感じ.他の学生もそういう人は多そうな気は何となくする.今は Win/Mac だし Python だし,余計なこと気にせず,計算機資源を使いこなすことにより重きを置ける状況になってきてる,のかな.

NFS の例もそうだが,コンピュータって,25年以上経って,それほど使いやすくなってないよねとも思う.できることが増えたので操作も複雑になるのは仕方ないのだろうか.仮にそうだとして,それだと進歩止まりますね.

CA から GA へ

6年住んだカリフォルニア州北部から,東海岸方面のジョージア州アトランタ近郊に引越しました.Facebook でお告知らせはしていたつもりだったもののあまりにも知られてなかった風があるので,改めまして "アトランタ?なんで?" というあたりの捕捉をしました.

そもそも6年前に北カリフォルニアに引っ越したのは妻の仕事での移動でした.この度,5年間の外科研修 (所謂 resident) が **やっと** 終わり,研修の合間に取った1年間の研究期間を含め6年の契約というか期間が終了しました *1.彼女は専門性をより深めるため1年間の追加研修をすることにし,応募して採用となった Atlanta の病院で仕事を始めています.

追加研修の応募先を探すにあたり2人で沢山話合いました.私個人で言うとカリフォルニアはとにかく気候が合っていること (北部は実は暑くなるものの湿気ゼロ (体感) なのでとても過ごしやすい)*2,米国内としては比較的日本に近いので行き来しやすいこと (子らを祖母父達に合わせるために必要),所謂シリコンバレーにも近く私自身は情報産業の仕事も探し易いこと,リベラルな気風等,カリフォルニアというか西海岸はとても気に入っており,かの地を離れる想像はそもそもあまりつきませんでした.しかしより現実的な?妻としては,高額な所得税は懸念としてあり (州によって税法が異なり,California は高税率),またより多くの友人達に近い地域に行きたいという希望もあったようで,意見がまとまり切りませんでした.そのような中で,行きたい追加研修プログラムを提供する病院が西海岸に決して多くなさそうなことが判明し,採用になれば米国内どこでも行く,という心積もりはした方が良さそうというのが判ってきました.そこで,追加研修は1年か2年間と決まっているので,むしろこの短い期間を遣って,自らは絶対に選ばないような地域を経験してみるのは良さそう,と前向きに捉えました *3.私は日本育ちなので無論のこと,米国育ちな妻としても,この国をより理解したいという希望はあり,この機会を利用して短期間なかなか知る機会が無さそうな地域に住んでみるというのは理に適ってそう,と意見が合いました.唯一私からのお願いとしては日本との直行便のある都市に絞ってもらいました.

結果,こうして東,というか米国では南部とのみ呼ぶっぽい,に来ました.一般的な?印象で言うと南部は保守的で,米国で言う"保守"は極端にいうと2020年現在の大統領の支持層なので,政治どころか人間の根源的な部分の考え方について相当に相容れなそうですが,米国内の常として都市圏は進歩的な考えの方も多いと聞きます.いづれにせよ目を見開いて過ごせるだけ過ごしてみます.南部に住むというのは,たった数年前の自分達の未来予想図にも一切入ってませんでしたが,妻の職場となった Emory University は,彼女が高校生の時に学部に応募してたようで,また10年前に私が大学院受験している時にも薦めてくれたりして (私が受験してた工学系が無い,ということは知らなかった様子w),今回まさかこうなるとはと縁を感じずに居られません.

未知のアメリカ南部をなんとか楽めるように整えていければ良いと思います.最短だと Georgia に住むのは今から1年間ですが.この先,より長く定住する地を決めるのはこれまた諸事情により,まああと4年後とかになるのではという気がしていて,あと1,2回は引越すことは覚悟しています.そういうわけで私は西海岸推しですが,どうなるか.南部を気に入って (或いは南部が私達を気に入ってくれて) 定住したくなる可能性もあります.

Plotted on Google Maps the direct line from northern California to Atlanta, GA

今回の引越しの直線的移動を地図に載せました.姉が探してくれたのによると直線距離 3,356km とのこと.稚内から福岡が 1,631km だそうなので日本だとほぼ北端から本土南端を往復ということになる,そうです.なお地図上の左下にある California 州が面積だけで既に日本より広いそう.

*1:研修が終わった,とさらっと述べるにとどめていますが,研修医の苛酷さは家族としても書けることは山ほどあり,むしろあり過ぎて萎えて書かない,という状態なのが正直なところです.が,絶対に忘れたくない経験で,子らにも伝えたく,記憶が遠のかないうちに回顧したいと思います

*2:日本に三十数年住んだ後に米国 (最初は Teaxs 州) に来て異なる気候に長期間身を置いてみて初めて,自分にとって気候はとても大事ということに気付きました.和辻哲郎の "風土" を引用しようとしましたが,そんな知恵はないことにも,気付きました.

*3:"自らは選ばない"というのは,家族や友人仕事のネットワークがあったり,仕事・生活上の大きな利点があるのが判ってたりする地域以外に住むことには理由が必要という意味です.

製品リリース難

オープンソースソフトウェアのリリースについては以前の5年間ほどほぼ毎日のように関わっていて,数千/数万人以上の同時ユーザがいるようなソフトウェア (MoveIt, industrial_ci 等) もやっている/たので,勿論困難はあれどまあお手のもの感はあったのですが,製品のリリースとなると勝手が違うようです.前職で,お客様の大手企業ロボティクス部門の方々が,年二回のリリースの度にエグリまくってたのを見て,何が大変なんだろう?でも触れないようにしよーっと,と見物していましたが,現職でリリース担当になって1年半,毎四半期のリリースの度に息も絶え絶えになっています.オープンソースの場合,不具合があったら修正リリース出せば良いやの世界ですが,製品,しかもお客様現地行かないとつらい,とかだと一個不具合直すために旅費だなんだで百万円以上かかることもあるし,そもそもお客様先に損が発生しかねないので,とにかく慎重です.産業用システムって化石のような古いバージョンが現役だよねとか馬鹿にされる対象なわけですが,自分も似た心持ちになりつつあるのが悲しくも現実.リリース作業期間中はニュースとか読む心の余裕もなくなりますね...終わった (Ende) と思ってもリリーステストで何か見つかったりで,なかなか終わらないし (Never Ending).つい Michael Ende が名作 The Neverending Story 書いたのって自分の名字に創発されたんだよね?とか考えて気を紛らわします.

 

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昭和・平成の中学野球部員の想い出その2

前回投稿 (昭和・平成の中学野球部員の想い出その1) で,例外的に下級生時から出場できる選手がいる,と書いたが,そのうちの一人の長島大輔選手について.自分の20代前半まで野球のスター選手でした.

前回も書いた佐野日大高の4番打者の弟さんで,小学校時代から町の少年野球では噂でしたが,中学で同じチームとしてみてみると格が違って,私は中1で 150cm そこそこだったのにむこうは 180cm ある感じで,そら話にならねーだろと.中1の時の3年生のチームはなかなか強くて,エースの杉山昌弘さんはその後作新学院 (その25年後に夏の甲子園で現西武ライオンズの今井達也投手を擁して優勝するあの高校ですね) で准エースとかになったはずですが,長島君はそういうチームで1人だけ3年生の練習に混じってブルペンに入ってたはず.

2年秋で自分らのチームになった際には満を持してエース投手となり,彼が投げたら大体打たれなくて,練習試合で前年全国優勝の芳賀中学とも互角にやり合えたりして,県大会上位にいくのも期待できるのではと自分らではなんとなく思ってたと思います.中学軟式野球は県大会にいくと投手はどのチームもそこそこ良いのでとにかく打てず接戦になり,ミスした方が敗けるという中々の緊張感.あれはなんとも言えず楽しかったし,ベースコーチなのでダイアモンド内でプレーはしてないけど敗けると悔しかった.私らの3年最後の試合は栃木東中学の,後に佐野日大高を甲子園に数回導く左腕の中村将明投手をまったく打てずに0-2とか完封負けだった気がします.試合後は全員号泣だった覚えがw

(ちなみに上記の中村投手,私が3塁コーチを務めて見た100試合近い中でもかなり球が速い方で,こら uten わー,と思ってたら結局,軟式の中学全国大会優勝したのではなかったかな.しかしその1,2年後に甲子園大会でテレビを通してみたら軟投派になっていて,中学の後に身体の状態や投球スタイルに変化があったとかでない限り,あんな豪速球投手でも甲子園行くと球遅い方になっちゃうのかと.)

長島選手はその後同じ県立宇都宮高校に進学し1年次から控え投手で,2年次以降はエースで出場していたはず.3年次には栃木県の好投手として全国紙にも名前が出ていて,チーム状態も良かったはず,夏の甲子園行きは在校生として真面目に期待していたところがあった.結局たしか県予選最後,後の西武ライオンズ小関竜也千葉ロッテ・渡邊俊介の国学院栃木高校に敗れたとかだったと思う.当時授業中に公衆電話で経過を聞いてました.他の高校だと授業休みにして試合を見に行くこともあると聞いてたけどそんなことはまったくなかったなあ.

その後たしか推薦で立教大学に進学,私が進学した慶応大学戦を中心に機会があれば神宮球場に立大の試合をみにいってました.
この方のブログにもあるように "立教の4番・長島" で,あのミスター・ジャイアンツと同じとさせるということで (正確には嶋と島の違いがあるが),また全国紙に何度か載ってたと思います.投手で入学したものの1年秋には打者として新人戦に出場していたのを見た気が.2年春には六大学リーグ戦に四番・一塁で出場してたと思います.出てきた頃は慶応のエース岩井投手から本塁打を放ったり,今後に期待を抱かせてくれました.しかし4年の頃は調子が落ちてたのかわからないけど,最後の打席も見に行きましたがたしか後に日ハム入りする東大の遠藤良平投手から力ない中飛に倒れて試合終了,東大に敗れリーグ最下位,彼の大学野球も幕を閉じるという,立教関係者じゃない私も残念に思ったりしました.

その後は本田技研鈴鹿で野球をされた後に,さいきん栃木の地元の友人と話したら確か長島君も栃木に戻ってる,と聞いた気がします.

長島君との個人的想い出としては,そういうわけで体格の違いが大きすぎて同じチーム内なのに一緒にプレーしたことが殆どないが,ある時に顧問が中学卒業後に野球を続けたい奴は基本をしっかりせい〜!とキャッチボールやトス打撃を徹底するよう言われたことがあり,その時にキャッチボールでちゃんと狙った所に投げ続けられるとして触れてもらったのが長島君と私だけでした.野球"選手"として唯一誇りに思ってる点ですw.

自身の中学運動部の甘辛い想い出 (ほぼ辛い,最後の3%だけ良い想いもした) に始まり,その中で光り輝く感じだった友人の活躍,日本の最高峰・プロ野球まで行くのか?といった期待に胸踊り,でも紆余曲折で夢途絶える,そういう経験をさせてもらえたのは友人・同級生として本当に有難いなあ,と四十を超えて噛み締めます.

昭和・平成の中学野球部員の想い出その1

一般的な話ではなく極めて個人的な想い出を.

小学校時代はチームで野球をする機会が少なく自宅隣の駐車場で毎朝"壁当て"をしていました.朝6時過ぎに TBS 系で西武ライオンズの番組を毎日5分間やってたのでそれを観て (おかげで小3から30年以上の西武ファン),その後は壁当てして学校にいくという毎日.小6の時にやっと地域の少年野球が復活して一年間 (正確には4月から7月とか短い間だけだったと思う) チームでやれて野球の楽しさを認識し,公立中学校に進んだら念願の野球部に入部しました.

そこで出会う同級生や先輩がみんな体が大きく,第二次成長期が本格的にはじまったのが中3の夏くらいだった自分は正直楽しめない3年間でした.そして年功序列が既定路線なのか,まず1年生は有無を言わさず球拾い,グラウンドならし,用具運搬が主.1年間でチームの練習時間中は野球をした覚えは一切ありません.キャッチボールすら記憶にない.試合中は脇でひたすら声を出して応援.なのに月金で放課後は3時間弱取られ,朝練習は必須じゃなかったが,1時間ほど,上級生のトスバッティングと称したフリー打撃の投手役か,やはり球拾い.この "トスバッティング" も酷いもので,世間一般に知られてるトス打撃は投手役に打ち返すものだが,ここでは自由な方向に飛ばせるだけ飛ばしていたので,投手役は常に打球が当たるのに怯えながらだった.土日のどっちかは丸一日練習試合でつぶれ,やることは球拾いと応援だけ.2年次も同じだったはず.3年生になるとようやく義務的な球拾いや用具運びからは開放される.今から考えたらどんなに野球が好きでも一ヶ月で辞めてたと思いますが,当時はいつか野球が出来るのかなと思って盲目に従っていたのかな...これは中学野球部時代の **反省点1**.勿論能力が高そうな人は1/2年次から野球っぽい練習に参加できるのだが私の時は30人以上居た同学年のうち2年次から野球してたのは2人しかいなかった.

なお当時,1989年夏でしたが,暑い真夏の練習中でも水は休憩時間にしか飲めなかった.誰が決めたことなのかはわからないままだったけど,日体大野球部卒の顧問の先生はそういうのには寛容だった気がしないでもないが,特に華々しい経歴がないことを卑下してる感じだった副顧問の先生が,ある夏休みの練習中に水飲みを厳しく取り締まって威厳を保とうとしていたところ,佐野日大高の4番打者としてその夏の甲子園出場を決めていた卒業生 (長島正史さん.その後阪神タイガースに入団した麦倉洋一さんの時) がたまたま居合わせ,飲まないとヤバい的な助け舟を入れて下さったため休憩時間以外の飲水が解禁となり副顧問が面目なくしてたの思い出す.

さて3年生になると (正確には2年の8月後半,3年生がすべての大会を終え引退した後) 晴れて試合への出場権が渡される感じで,ここでは当然競争原理なので上手ければ20人枠のベンチに入り背番号がもらえるが,そこから漏れれば3年次でもなお試合中に観戦席で立って声出しである (甲子園中継でよく見る観客席でユニフォーム着てメガフォン持ってるあの方達と言っても良いか.私は中学1,2年次のほんっっっとにつまらなくて嫌だった想い出があるので,あの選手達の無念はよくわかるつもり).前述の通り成長期に未だ達していなかった私はベンチ入りの望みは薄かったのだが,野球にはベースコーチという,自チーム攻撃中にプレーはしないが指示を出す "要職" が2席あり,どういうわけか3塁コーチとして選ばれたため12番という割と小さい番号 ("良い"番号) を貰った.プロでも同じかと思うけどベースコーチは特に理由がない限り毎試合毎イニング "出場" するので,欠席とかできない割と重責なのは意気に感じる部分はあった反面,経験を積むためコーチに専念するという面もあったと思われ,試合出場する道は絶たれた感があった.2年秋の時点では,自分の成長期がいつ始まるかわからず,冬の間猛特訓で春には選手として出るのを目指す,という手はあったはずだが,冬に特に猛練習した記憶がない.これは **反省点2**.