30歳過ぎから工学 vol.2

http://d.hatena.ne.jp/j130s/ から移行しました.オープンソースロボットソフトウェア技術者兼主夫. 高校・大学学部文系-->何となくソフトウェア開発業-->退職・渡米,テキサス州でシステムズ工学修士取得,しかし実装の方が楽しいと気付き縁があったロボティクス業界で再就職.現在 Texas 州内の産業用オートメーションのスタートアップに California 州から遠隔勤務.

昭和・平成の中学野球部員の想い出その1

一般的な話ではなく極めて個人的な想い出を.

小学校時代はチームで野球をする機会が少なく自宅隣の駐車場で毎朝"壁当て"をしていました.朝6時過ぎに TBS 系で西武ライオンズの番組を毎日5分間やってたのでそれを観て (おかげで小3から30年以上の西武ファン),その後は壁当てして学校にいくという毎日.小6の時にやっと地域の少年野球が復活して一年間 (正確には4月から7月とか短い間だけだったと思う) チームでやれて野球の楽しさを認識し,公立中学校に進んだら念願の野球部に入部しました.

そこで出会う同級生や先輩がみんな体が大きく,第二次成長期が本格的にはじまったのが中3の夏くらいだった自分は正直楽しめない3年間でした.そして年功序列が既定路線なのか,まず1年生は有無を言わさず球拾い,グラウンドならし,用具運搬が主.1年間でチームの練習時間中は野球をした覚えは一切ありません.キャッチボールすら記憶にない.試合中は脇でひたすら声を出して応援.なのに月金で放課後は3時間弱取られ,朝練習は必須じゃなかったが,1時間ほど,上級生のトスバッティングと称したフリー打撃の投手役か,やはり球拾い.この "トスバッティング" も酷いもので,世間一般に知られてるトス打撃は投手役に打ち返すものだが,ここでは自由な方向に飛ばせるだけ飛ばしていたので,投手役は常に打球が当たるのに怯えながらだった.土日のどっちかは丸一日練習試合でつぶれ,やることは球拾いと応援だけ.2年次も同じだったはず.3年生になるとようやく義務的な球拾いや用具運びからは開放される.今から考えたらどんなに野球が好きでも一ヶ月で辞めてたと思いますが,当時はいつか野球が出来るのかなと思って盲目に従っていたのかな...これは中学野球部時代の **反省点1**.勿論能力が高そうな人は1/2年次から野球っぽい練習に参加できるのだが私の時は30人以上居た同学年のうち2年次から野球してたのは2人しかいなかった.

なお当時,1989年夏でしたが,暑い真夏の練習中でも水は休憩時間にしか飲めなかった.誰が決めたことなのかはわからないままだったけど,日体大野球部卒の顧問の先生はそういうのには寛容だった気がしないでもないが,特に華々しい経歴がないことを卑下してる感じだった副顧問の先生が,ある夏休みの練習中に水飲みを厳しく取り締まって威厳を保とうとしていたところ,佐野日大高の4番打者としてその夏の甲子園出場を決めていた卒業生 (長島正史さん.その後阪神タイガースに入団した麦倉洋一さんの時) がたまたま居合わせ,飲まないとヤバい的な助け舟を入れて下さったため休憩時間以外の飲水が解禁となり副顧問が面目なくしてたの思い出す.

さて3年生になると (正確には2年の8月後半,3年生がすべての大会を終え引退した後) 晴れて試合への出場権が渡される感じで,ここでは当然競争原理なので上手ければ20人枠のベンチに入り背番号がもらえるが,そこから漏れれば3年次でもなお試合中に観戦席で立って声出しである (甲子園中継でよく見る観客席でユニフォーム着てメガフォン持ってるあの方達と言っても良いか.私は中学1,2年次のほんっっっとにつまらなくて嫌だった想い出があるので,あの選手達の無念はよくわかるつもり).前述の通り成長期に未だ達していなかった私はベンチ入りの望みは薄かったのだが,野球にはベースコーチという,自チーム攻撃中にプレーはしないが指示を出す "要職" が2席あり,どういうわけか3塁コーチとして選ばれたため12番という割と小さい番号 ("良い"番号) を貰った.プロでも同じかと思うけどベースコーチは特に理由がない限り毎試合毎イニング "出場" するので,欠席とかできない割と重責なのは意気に感じる部分はあった反面,経験を積むためコーチに専念するという面もあったと思われ,試合出場する道は絶たれた感があった.2年秋の時点では,自分の成長期がいつ始まるかわからず,冬の間猛特訓で春には選手として出るのを目指す,という手はあったはずだが,冬に特に猛練習した記憶がない.これは **反省点2**.