30歳過ぎから工学 vol.2

http://d.hatena.ne.jp/j130s/ から移行しました.オープンソースロボットソフトウェア技術者兼主夫. 高校・大学学部文系-->何となくソフトウェア開発業-->退職・渡米,テキサス州でシステムズ工学修士取得,しかし実装の方が楽しいと気付き縁があったロボティクス業界で再就職.現在 Texas 州内の産業用オートメーションのスタートアップに Georgia 州から遠隔勤務.

昭和・平成の中学野球部員の想い出その2

前回投稿 (昭和・平成の中学野球部員の想い出その1) で,例外的に下級生時から出場できる選手がいる,と書いたが,そのうちの一人の長島大輔選手について.自分の20代前半まで野球のスター選手でした.

前回も書いた佐野日大高の4番打者の弟さんで,小学校時代から町の少年野球では噂でしたが,中学で同じチームとしてみてみると格が違って,私は中1で 150cm そこそこだったのにむこうは 180cm ある感じで,そら話にならねーだろと.中1の時の3年生のチームはなかなか強くて,エースの杉山昌弘さんはその後作新学院 (その25年後に夏の甲子園で現西武ライオンズの今井達也投手を擁して優勝するあの高校ですね) で准エースとかになったはずですが,長島君はそういうチームで1人だけ3年生の練習に混じってブルペンに入ってたはず.

2年秋で自分らのチームになった際には満を持してエース投手となり,彼が投げたら大体打たれなくて,練習試合で前年全国優勝の芳賀中学とも互角にやり合えたりして,県大会上位にいくのも期待できるのではと自分らではなんとなく思ってたと思います.中学軟式野球は県大会にいくと投手はどのチームもそこそこ良いのでとにかく打てず接戦になり,ミスした方が敗けるという中々の緊張感.あれはなんとも言えず楽しかったし,ベースコーチなのでダイアモンド内でプレーはしてないけど敗けると悔しかった.私らの3年最後の試合は栃木東中学の,後に佐野日大高を甲子園に数回導く左腕の中村将明投手をまったく打てずに0-2とか完封負けだった気がします.試合後は全員号泣だった覚えがw

(ちなみに上記の中村投手,私が3塁コーチを務めて見た100試合近い中でもかなり球が速い方で,こら uten わー,と思ってたら結局,軟式の中学全国大会優勝したのではなかったかな.しかしその1,2年後に甲子園大会でテレビを通してみたら軟投派になっていて,中学の後に身体の状態や投球スタイルに変化があったとかでない限り,あんな豪速球投手でも甲子園行くと球遅い方になっちゃうのかと.)

長島選手はその後同じ県立宇都宮高校に進学し1年次から控え投手で,2年次以降はエースで出場していたはず.3年次には栃木県の好投手として全国紙にも名前が出ていて,チーム状態も良かったはず,夏の甲子園行きは在校生として真面目に期待していたところがあった.結局たしか県予選最後,後の西武ライオンズ小関竜也千葉ロッテ・渡邊俊介の国学院栃木高校に敗れたとかだったと思う.当時授業中に公衆電話で経過を聞いてました.他の高校だと授業休みにして試合を見に行くこともあると聞いてたけどそんなことはまったくなかったなあ.

その後たしか推薦で立教大学に進学,私が進学した慶応大学戦を中心に機会があれば神宮球場に立大の試合をみにいってました.
この方のブログにもあるように "立教の4番・長島" で,あのミスター・ジャイアンツと同じとさせるということで (正確には嶋と島の違いがあるが),また全国紙に何度か載ってたと思います.投手で入学したものの1年秋には打者として新人戦に出場していたのを見た気が.2年春には六大学リーグ戦に四番・一塁で出場してたと思います.出てきた頃は慶応のエース岩井投手から本塁打を放ったり,今後に期待を抱かせてくれました.しかし4年の頃は調子が落ちてたのかわからないけど,最後の打席も見に行きましたがたしか後に日ハム入りする東大の遠藤良平投手から力ない中飛に倒れて試合終了,東大に敗れリーグ最下位,彼の大学野球も幕を閉じるという,立教関係者じゃない私も残念に思ったりしました.

その後は本田技研鈴鹿で野球をされた後に,さいきん栃木の地元の友人と話したら確か長島君も栃木に戻ってる,と聞いた気がします.

長島君との個人的想い出としては,そういうわけで体格の違いが大きすぎて同じチーム内なのに一緒にプレーしたことが殆どないが,ある時に顧問が中学卒業後に野球を続けたい奴は基本をしっかりせい〜!とキャッチボールやトス打撃を徹底するよう言われたことがあり,その時にキャッチボールでちゃんと狙った所に投げ続けられるとして触れてもらったのが長島君と私だけでした.野球"選手"として唯一誇りに思ってる点ですw.

自身の中学運動部の甘辛い想い出 (ほぼ辛い,最後の3%だけ良い想いもした) に始まり,その中で光り輝く感じだった友人の活躍,日本の最高峰・プロ野球まで行くのか?といった期待に胸踊り,でも紆余曲折で夢途絶える,そういう経験をさせてもらえたのは友人・同級生として本当に有難いなあ,と四十を超えて噛み締めます.

昭和・平成の中学野球部員の想い出その1

一般的な話ではなく極めて個人的な想い出を.

小学校時代はチームで野球をする機会が少なく自宅隣の駐車場で毎朝"壁当て"をしていました.朝6時過ぎに TBS 系で西武ライオンズの番組を毎日5分間やってたのでそれを観て (おかげで小3から30年以上の西武ファン),その後は壁当てして学校にいくという毎日.小6の時にやっと地域の少年野球が復活して一年間 (正確には4月から7月とか短い間だけだったと思う) チームでやれて野球の楽しさを認識し,公立中学校に進んだら念願の野球部に入部しました.

そこで出会う同級生や先輩がみんな体が大きく,第二次成長期が本格的にはじまったのが中3の夏くらいだった自分は正直楽しめない3年間でした.そして年功序列が既定路線なのか,まず1年生は有無を言わさず球拾い,グラウンドならし,用具運搬が主.1年間でチームの練習時間中は野球をした覚えは一切ありません.キャッチボールすら記憶にない.試合中は脇でひたすら声を出して応援.なのに月金で放課後は3時間弱取られ,朝練習は必須じゃなかったが,1時間ほど,上級生のトスバッティングと称したフリー打撃の投手役か,やはり球拾い.この "トスバッティング" も酷いもので,世間一般に知られてるトス打撃は投手役に打ち返すものだが,ここでは自由な方向に飛ばせるだけ飛ばしていたので,投手役は常に打球が当たるのに怯えながらだった.土日のどっちかは丸一日練習試合でつぶれ,やることは球拾いと応援だけ.2年次も同じだったはず.3年生になるとようやく義務的な球拾いや用具運びからは開放される.今から考えたらどんなに野球が好きでも一ヶ月で辞めてたと思いますが,当時はいつか野球が出来るのかなと思って盲目に従っていたのかな...これは中学野球部時代の **反省点1**.勿論能力が高そうな人は1/2年次から野球っぽい練習に参加できるのだが私の時は30人以上居た同学年のうち2年次から野球してたのは2人しかいなかった.

なお当時,1989年夏でしたが,暑い真夏の練習中でも水は休憩時間にしか飲めなかった.誰が決めたことなのかはわからないままだったけど,日体大野球部卒の顧問の先生はそういうのには寛容だった気がしないでもないが,特に華々しい経歴がないことを卑下してる感じだった副顧問の先生が,ある夏休みの練習中に水飲みを厳しく取り締まって威厳を保とうとしていたところ,佐野日大高の4番打者としてその夏の甲子園出場を決めていた卒業生 (長島正史さん.その後阪神タイガースに入団した麦倉洋一さんの時) がたまたま居合わせ,飲まないとヤバい的な助け舟を入れて下さったため休憩時間以外の飲水が解禁となり副顧問が面目なくしてたの思い出す.

さて3年生になると (正確には2年の8月後半,3年生がすべての大会を終え引退した後) 晴れて試合への出場権が渡される感じで,ここでは当然競争原理なので上手ければ20人枠のベンチに入り背番号がもらえるが,そこから漏れれば3年次でもなお試合中に観戦席で立って声出しである (甲子園中継でよく見る観客席でユニフォーム着てメガフォン持ってるあの方達と言っても良いか.私は中学1,2年次のほんっっっとにつまらなくて嫌だった想い出があるので,あの選手達の無念はよくわかるつもり).前述の通り成長期に未だ達していなかった私はベンチ入りの望みは薄かったのだが,野球にはベースコーチという,自チーム攻撃中にプレーはしないが指示を出す "要職" が2席あり,どういうわけか3塁コーチとして選ばれたため12番という割と小さい番号 ("良い"番号) を貰った.プロでも同じかと思うけどベースコーチは特に理由がない限り毎試合毎イニング "出場" するので,欠席とかできない割と重責なのは意気に感じる部分はあった反面,経験を積むためコーチに専念するという面もあったと思われ,試合出場する道は絶たれた感があった.2年秋の時点では,自分の成長期がいつ始まるかわからず,冬の間猛特訓で春には選手として出るのを目指す,という手はあったはずだが,冬に特に猛練習した記憶がない.これは **反省点2**.

イチロー - こんな野球選手と同時代を生きられて良かった

イチロー引退会見を拝読してみて,凄すぎてもはや共感とかできない感じで,しかし彼と同じくらい己を律して仕事している人はこの世に沢山いそうだとは思った.勿論イチローは努力に対して結果を最大級に伴わせてきた仕事人だろうことは疑いないですが,スポーツとりわけ野球は数字に表れやすいという面もあるにはあるかなと.


勝手に残念に思ったのは弓子さんはじめ周りにいるであろうチームイチローへ限定的にのみしか触れられてなかったこと.家事とかぜったい一切してないでしょこの人.チョー感謝しまくって欲しいし,してると思う.既成の枠を壊しながら前進し続けて来た人だと思うので,周りへの感謝についても通常の仕事人以上に重点を置いて,誰も想像つかない方法で,言い及んだりするのかなとなんとなく楽しみにしてたけど.まあ夜中の会見だったようだし,今後ゆっくり期待します.


"日本人"だから応援したい,という視点はどうしても付いてくる一方,僕はオリックス・Seattle のファンではないので心中どこかで"敵"の主力選手なんですよね.だから類稀な存在として大活躍を続けて欲しい一方で菊池雄星とか贔屓チームの投手には圧倒的に抑え込まれるみたいなのがずっと見たかったけど (米の贔屓 Texas にいた CJ Wilson はイチローを2割未満に抑えた少ないうちの一人ではあるが),それも叶わず西武なんかいつもコテンパンだった印象.雄星なんかむしろ最後だけ同僚.


個人的に不幸があって気が沈んだ週末のこのニュース.こんな野球選手と同じ時代を生きられたこと自体,生涯の思い出になりそうです.

ある米国ロボティクススタートアップ企業に遠隔で働く生活

今の勤め先に就いて1年半くらい経ちました.米国のスタートアップってどうなんですか,というご質問を何度か頂いたので少しご紹介まで.あくまで一例ということで.なお,同じ米国内のスタートアップ企業でも,工学色が強い企業とそうでない業種の企業とではかなり色々異なったりもするようです.また,資金状態により組織管理に回せる資源も異なると思うので一応触れると,弊社は創業二年目,シード調達,2018年後半にシリーズA調達と二回の資金調達を経て合計で日本円だと凡そ12億円くらいの状態です.

スタートアップ,日本だとベンチャーという呼称の方が定着してそうですが,よく頂く質問に自分なりに答える形式で書いてみます.

忙しい?

人により忙しいの定義が違うのをふまえた上で,私の場合は忙しさは "ふつう" です.組織から求められた拘束時間は決してべらぼうに多くない.それに自宅からの遠隔勤務で,会議 (勿論電話やネット経由) 以外の時間の使い方は自由が利く等,裁量が多く認められてる感じることもあり,むしろ拘束時間には不満がない感じです (仕事好きなので空き時間の多くは自分の意志で仕事関連の事をしてることは多いですが).いっぽうで,精神的負担の面での "忙しさ" は多少あるかなと.目の前のチャンスを逃すと即ちに会社が潰れる可能性は常に隣り合わせなので,お客さんとのプロジェクトで先方側の変更にも敏感に可能な限り対応する意識は徹底しているように感じます.したがって捉え方次第では "振り回される" 状態にもなり得ますが,スタートアップだからある程度仕方無いと各自が処理しつつ,処理しきれない残りの部分はマネジャーに不平をぶつけるというサイクルが今の所回ってるのかなと.

オフィスが車庫である?

これは憧れますけどねえ〜,違います.西岸海洋性気候で一年を通して穏やかな気候のシリコンバレーならさておき,テキサスだと夏暑くなるので無理です.というのは半ば冗談として.真面目な話,スタートアップ企業の贅沢なオフィスとかよく記事とかで見ますし,賛否両論でしょうが,弊社は人件費に注ぎ込むとトップから宣言されていて,オフィス等アメニティは最低限に抑えられています.洒落たオフィスがあればなお良いけど,そうでなくてもモチベーションに困らない社員を確保出来てるということなのかも知れない.

無給である?

中にはそういうスタートアップ企業もあるかも知れませんが,あまり無いのではと思います.企業の方針によるでしょうが,成果を出さないとすぐ潰れるので,むしろ最速で成果を出すために給与はそれほどケチらずに優秀な人を確保したい会社が多いのでは.
なお米国は州ごとに所得税の割合や就労に関する法律が異なったり,地域により生活費に雲泥の差があったり等で,給与水準も場所により異なります.基本的に都会の方が人気があり生活費が高いため給与も高い傾向があるのでは.日本のメディアが大好きなシリコンバレー地域 (米国だとサンフランシスコ・ベイエリアみたいに呼ぶことのが多そう) は特に生活費の高騰が社会問題になりますが,やはり高給を取るエンジニアを大量に抱える超大企業が多いこともあり給与も高めに思う反面,ネットで見てる限りだと*1,現地のスタートアップ企業のすべてがそうべらぼうに高給なわけでは無く,むしろ中・大企業が例外的に高給なのかなと思ったりもします.私の勤務する企業は本社*2が給与水準が米国内では必ずしも高い方には入らないテキサス州の地方都市で,入社面接の際には,(カリフォルニア州在住の私を気遣ってか) ベイエリア価格は払えなくて申し訳ないんだけど,と気にしてもらいましたが,始まってみたら遜色無い感じです.テック産業の聖地であり,それ以外にも気候や文化など外から来る人には色々魅力的に映る点があるシリコンバレーでは,むしろ給与を多少抑えても人が来る?という背景もあるのかなと思ったりしてます.

無休である?

どうでしょう.これは想像ですが,組織として量的な面での勤務が決められているわけではなく,働きたければ無休に近い状態で働いても良いし,そうではない働き方を選ぶ人もいる,そういう状況なのではないでしょうか.私の勤務先は創業者3人共に30台中盤以降・子持ち,企業・人生経験豊富なオッサソ達ということもあるのか,個人の事情は最大限理解してもらってると思いますし,いわゆる Work-Life balance を取ってこそより生産性が上がるはず,ということになってると思います.実際,仕事の進捗状況や出張等で避けられない場合を除き,土日には Email がパッタリ止まります (とはいえ多くの社員が週末も何かしかの仕事はしてそうですが).私も正直,馬車馬のように働くという印象をスタートアップ企業にはもっていました (し,憧れてもいた) が,一方で家庭の事情で急な休みが多くなりがちなこと (妻が仕事の事情で日程の融通がほぼまったく利かない,休日がたまにしか取れない等により,平日の朝夕,週末含めて子育て等家庭の事,非常時の対応等は私が主にしています) や,そもそも妻の仕事の都合により引越すつもりは無く基本遠隔のみの勤務となる事なども理解してくれました.他の社員もそれぞれ色々相談しながらやってるようです.正直,仕事内容は勿論ですが,個人の事情を尊重してもらえてる感が今の勤務先はとても有難いと思っています.

ロボット業なのに遠隔勤務ってどう?

産業用ロボット等ハードウェアを含めたシステムを扱うので,現地で手足を動かすのが必須なのは言うまでもありません.基本的には物資は本社の実験室に設置し,自宅には最低限のハードウェアしか置いてません.自分の担当箇所のハードウェア含めた作業は,現地社員とやり取りしながら何とかやっています.動画通話は欠かせません.社屋には遠隔者用にテレプレゼンス機 (台車の上にカメラ,マイク,モニタ等が付いており,遠隔から操作して社屋内を移動,会話できる装置) もあり私はよく利用しています.VPN 経由で遠隔ログインしてソフトウェア操作しつつ,物理的なことは現地社員にやってもらい,自分はテレプレゼンスで挙動を確認するとか.今の所どうにかなってはいるか.

会社員として遠隔勤務ってどう?

社員の2割程度が遠隔勤務で,遠隔者が複数人になった街ではオフィス借りたりしててちょっと羨ましい.今のところ私含め全員がシニアレベルです.以前は学生インターン (工学のトップスクール在学中) を遠隔で雇って生産性が上がらなかったなんて苦い経験もあったらしい.また,本社付近に住む社員でも,色々な理由で出社せず働く日はしょっちゅうあるようです.これまでのところ最もクリエイティブな出社不可理由は,車庫の前に雉が居て車が出せない,というのかな.縛りが行き届かないスタートアップならではの環境を享受してはいます.
州外社員は,これまではテキサスの "本社" に3ヶ月に一度集まる機会を頂いていました.新しい社員も毎月入社しているし,やはり一度会ってるのと会ったことがないのとでは全然違います.しかし私の場合カリフォルニアからの移動で乗継ぎ含めどうしても計10時間以上で生産性は落ちる上,仕事は忙しくなる一方なので今後はどうなるか.全社員が遠隔で働く Gitlab 社等他社を参考にしながら,遠隔社員の働き方は少しづつ変わって来ています.

私は直近5,6年は遠隔中心の勤務なのですが,対面できる同僚がいるオフィスという環境にメリットは多いと思うし理想的には自分もそういう働き方をしたいとした上で,ロボティクス関連の技師として日々の仕事を進めるうえで遠隔勤務に深刻な不都合は感じていません.コミュニケーションツールを使っての作業に今の勤務先の同僚が我慢してくれてるのは大きいと思います.もし技術習得が限定されると困りものですが,担当分野を割とハード問わない方面にしているのもあり,インターネットで調べたり授業を受けて補うこともできるし,あまり大きな障害ではないかなと.妻は仕事外で同僚とつるむことができない私の状況を心配してくれてるようですが,それは他の機会で作れば良いし,そもそも小さい子達と家事の面倒で夜はどうせ外出できないし,今は良いかなと.
では何が遠隔の短所になり得るかというと,意思決定や他者の感情を汲みながらの作業等の経験は減るかなと.日々誰かと対面しながらの作業だと,大小様々な意思決定を,他者の気持ちを尊重しながら行いますが,遠隔で他者の微妙な機微が見えにくい中での仕事だと,論理のみで感情面の思慮は薄いまま決めごとを進めてないかな,と自分を省みて感じます.もちろん,目の前の仕事がそれで進むのであれば当面まったく問題無いとは思いますが,5年先10年先のキャリアを考えた時に,対人的な部分を研ぎ澄ます機会が少ないのはちょっと考えどころです.

*1:glassdoor.com 等を参考に.

*2:本社とかいうほどの規模はないが,他州にもオフィスがあるので間違いでもない.

悪いのは合意してない役割分担であって亭主関白自体ではないはず

ノーベル賞に内助の功 強調するメディアに「違和感」も - asahi.com

この記事,亭主関白的な関係に対して説明もなく否定的になっているけど,夫婦等パートナー間の役割分担について同意納得が得られてるのであれば問題無い筈というか,少なくとも外野が口を挟む話では無いと思います.なので美談に (というか賞賛) するなら "(おそらく) 同意された役割分担が機能した" 点であって,それを無視して所謂 "内助の功" 的な関係だったことを殊更に取り上げるのは筋違いと思う.私の世代の友人にも,どちらか片方がガンガン働いてもう一方は家を守る感じで幸せそうなカップルは何組もいて,それを否定するのかと.

と,頑張って正論を試みたところで,"私の方が (諸処の状況が) 向いているので子育てを (主に) 担った" 側の人間としては,納得してやってるとはいえ日々積み重なっていく気持ちの晴れない部分があって,他にもそういう人達が居ると知ることができるのは気持ちの支えになります.私達夫妻は妻の仕事を優先していて (かつ私もフルタイム勤務するのが条件だけど),仕事 ・趣味に没頭できる立場を与えられたお父さんお母さんを見ると,正直妬みは出てくる (が,無条件に批判はしません.筋違いだし,大人だし).なのでサポートにまわった側の方々を公に褒めるのはもっとやってくれよ,と思う (ご本人達が望まない場合を除き) し,ましてノーベル賞とかなら尚更.

亭関の事例は前世紀に沢山出て成果も分かってきたところで,今世紀は他のスタイルに脚光をどんどん当てて欲しいと思います.

オンリーワンとロールモデル

トヨタとソフトバンクが組んで会社を作るというニュース,学部の時の同級生が取締役に御就任されるとのこと.十五年くらい前まだ二十代wでキャリアに悩み暗中を這っていた時に,偶然みたオープンソースコミュニティのメーリングリストで彼が議論をまとめたりしてるのを見て,(今考えると変な話だが) へー日本人でも活躍できる世界なんだなー,と,当時は刺激だけ受け取ってましたが,それから十年も経たずに自分もオープンソース業界でどうにかこうにか話を出来るようまでになり,活動場所を得たり,と思えるようになった.その一端には,迷ってどうしよもない若い頃に見たかつての同級生が先を行く姿は,確実に影響してると思います.

ノーベル医学賞の本庶氏のエッセイFacebook 上の知人曰く,(このエッセイに限らないのだと思うが) これを読んで共感できる等と相槌を打つのは僭越で,理解できる箇所を自分の都合に良く解釈しているに過ぎないのでは,と.その知人の言には静かな感動を覚えました.その言に従いつつエッセイに絡んでコメントすると,研究者はオンリーワンを目指すべきなのだそうです.ヒット曲のタイトルにもなってますが,闇雲にユニークであれば万事宜しいわけではなく,じゃあオンリーワンとはどういうこと?と研究者でなくとも考えることがありますが,その際に,自分の向き不向きと向き合うことは避けられないなあと思います.

かつて厳しく指導をして下さった方が,私はエース級の技師を目指し,真似するべきではない,と当時言われました.その時に外注先の IBM 研究所のマネジャの方何人かと一緒に仕事させて頂くことがありました.PhD 持ちで大学講師も務めるような"エース級"の方は,技術的な問題があった際,マネジャとしてのタスクの扱いは勿論行ったうえで,専門知識を活かしつつ御自身で深く洞察した上でチーム内での解決に活かしている感じで,一緒に研究を進めましょう,という印象を顧客である私達に与える感じでした.一方,私にむしろ参考にすべきと示されたのは同社の別なマネジャの方で,私の印象だとその方はチームが最も機能するよう調整することに徹している印象でした.後で聞いたところによるとその方も同社製品開発で実績があり技術者として優秀な方でしたが,プロジェクトマネジャとして客先に来られている時は,問題をチームで効率的に処理することに集中し,さばさばとした印象でした.それら方々のどの部分を指して私に真似すべき・すべきではない,と仰られたのかは結局深く話しする機会がなかったのではっきり分からないのですが,ロールモデルとなる人を持つことを明示的に意識した瞬間でした.

このブログタイトルにもしている通り,30過ぎてから本格的に工学に転向しました.30にして大いに惑い,アメリカに渡って修士を取り,シリコンバレーで"エース級"が集まる企業への潜入 に成功し (&すべてにおいて圧倒的な差を目の当たりにして打ちひしがれる),広い工学業界で冒頭のように自分が向いていると思える居場所を見つけ,40歳も半ばに指しかかろうとしています.大きな大きな遠回りでしたが,もし30代を基礎習得に捧げていなかったら今どうなっていたかと思うと本当に良かった.いっぽう,言い訳半分ですが,数学的思考をはじめ10代・20代で勉学に打ち込むのに比べると30代はパフォーマンスは相当落ちると思う (確証はない).そもそも元々の工学的センスも欠けています.今に至り,日々の業務や,業界内で起きていることを見知るにつけ,十分深く追求するには至らなかった事は折々に後悔となって顕れます.基本的に2年間で修了する修士過程に進むべきか,5年以上かかるとされる博士過程に進むべきかを迷った際に判断の軸にした事の一つは,ロールモデルの方々で,最終的には早く仕事復帰して経験を積むべく修士に進みました *1.しかし,どうせ学校に戻る決断をしたのであれば,数年更にかかってもとことんやっておいたなら今頃どうなってたかな,とは思いますが.何にせよ,今後もずっと,おそらく引退するまで,勉強し続けないとやっていけないのが技師という仕事かな?と思います.

*1:これには色々誤解があり,特に少なくとも米国の工学の博士過程は,学業を本分としつつも,仕事としての経験も多く積む.そもそも学費免除な上に給与が出る身分

米国スタートアップ企業での日経誌購入

勤務先は創業ほぼ1年で社員数も (やっと) 10人を越えましたが,いまだ私は唯一の英語非ネイティブ.もちろん日本語使える人も1人だけ,仕事内容も今のところ日本まったく関係無し.そんな中で日本語雑誌の社費購入をお願いしてみたら二つ返事でオーケー来ました.毎号の見出しは訳しますが,お後は翻訳技術でよろしくと.

ボス達を見てるとアメリカの人々は/も業界情報は人伝てで仕入れつつメディアで補完する,くらいなのかと感じています.創業者達みんなオッサンなので,これまでに築いてきた人のネットワーク自体が資源なのかなと.で,地理・文化的に遠い日本やアジアの業界情報はメディア頼みになりがちなんだけど,英語メディアだとどうしても遅れたり薄かったりなので,今回の雑誌購入はそこら辺の情報源として期待されている感じです.この日経 Robotics 誌は,個人的には月刊誌としてはページ数考慮すると割高に感じるけども,そういうわけで情報源への投資には積極的だし,そう考えると別に高額じゃないネ,といったところなのか.

日経 Robotics