30歳過ぎから工学 vol.2

http://d.hatena.ne.jp/j130s/ から移行しました.オープンソースロボットソフトウェア技術者兼主夫. 高校・大学学部文系-->何となくソフトウェア開発業-->退職・渡米,テキサス州でシステムズ工学修士取得,しかし実装の方が楽しいと気付き縁があったロボティクス業界で再就職.現在 Texas 州内の産業用オートメーションのスタートアップに Georgia 州から遠隔勤務.

古川康一先生の個人的思い出

2017年1月末,古川康一先生が急逝されました.私は米国で育児等しており,急遽執り行われた葬儀に駆けつけることも叶わず,当日は20年来の思い出を日記にして先生を偲びました.日本語だと読んでくれない妻 (や他の家族) とも共有したいと考えたのと,そもそも計算機科学の分野において世界に功績を残された古川先生にしては英語の記事が少なすぎるということに気付いたのとで,日記はここに英語で書いたのですが,日本語でも読みたいと要望を頂いたので次の通り訳しました.

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先週,大学学部時の学習アドバイザが亡くなった.二ヶ月前に最近の研究成果をやっと書籍として発売され,研究室 OG・B にもその連絡を頂いたばかりで,早速次の目標に向かっておられる様子を伺い知れ,"さすがお元気な先生,今年も張り切っておられる" と,ある意味いつもの先生だと,特段気にとめなかった,その矢先だった.先週は訃報が届いた後,卒業生グループは悲しみにくれる間もなく御葬儀のお手伝いに奔走された様子で,私も住んでいる米国からできることをしたのだが,色々思いが巡る中で,自分のこれまでの人生で古川先生とその教え子グループメンバとから受けた影響の大きさに気付くこととなった.

ここに自分のできる限りの古川先生の記憶を綴っておく.そうこうしてるうちにだいぶ長ったらしくまとまりのないものになってしまったが,公式追悼文でもなく (先生の下で博士号を取られた先輩方を差し置くつもりも毛頭ないし),また内容に誤りもあるかも知れないのを予めご容赦頂きたい.本文は,極めて率直な,個人的な先生との記憶である.英語で記しているのは,日本国外の先生のコラボレータの方々にも届けば,私のちっぽけな経験でも在りし日の先生との御記憶を少しでも彩ることに助力出来ないか,と考えたのと,あとは個人的で恐縮だが私の米国人家族に,古川先生の薫陶のもと自分が20代・30代何をしていたかを知ってくれればという思いからである.いま40を過ぎ,自分なりにあっち行ったりこっち行ったりしながら何とかやっとこさ芯ができてきたキャリアにはある程度満足しているが,ここまでやってこれたその大もとには先生との出会いがあった.

まず,日記を書き始めて気付いたのだが,世界の研究コミュニティでの存在感に反し,英語で書かれた先生の紹介がネット上でほぼ見つからない.これはネットが隆盛した90年後半以降よりも前から活躍をされていた研究者の方には仕方のないことなのかも知れない.本の中身を検索できる Google の機能を使い,"The Quest for Artificial Intelligence" という書籍中にあった下記紹介を引用させて頂く (日付は著者が更新).慶応ご退職が2008年だったことを考えると少なくとも過去10年以内に書かれた書籍ということで,ここで紹介するのも妥当かと思う:

Koichi Furukawa (1942-2017), a Japanese computer scientist, was influential in ICOT's decision to use PROLOG as the base language for their fifth-generation machine. Furukawa had spent a year at SRI during the 1970s, where he learned about PROLOG from Harry Barrow and others, Furukawa was impressed with the language and brought Alain Colmerauer's interpreter for it (written in FORTRAN) back to Japan with him. He later joined ICOT, eventually becoming a Deputy Director. (He is now an emeritus professor at Keio University.)

上の内容に微力ながら少し付け加えると,直近の20年間ほどは"スキル・サイエンス"という,古川先生とお仲間が提唱した学問分野にシフトされていた.誤解を恐れず要約すると,人間の複雑な物理的動作を科学的手法により解明しようとするもので,古川先生の場合はとりわけ自ら被験者となり,御自身のチェロ演奏力向上に役立てられていた (先生のチェロ好きは学界では有名な話らしく,事あるたびに会議でも演奏されていたようだ.Jacques Cohen,Alan Robinson,Jack Minker らと "Logic Programming Trio" なる geek 極まりない名前の三重奏グループも結成しておられた).

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Brandeis 大学の Jacques Cohen のサイト上の幾つかの写真をここに引用させて頂きます.

さて,ここから個人的体験を綴ることになる.再度のお願いとなるが,先生の優秀なお弟子さん方とのやり取りとはまったくかけ離れたものであるのが申し訳ない.私が初めて先生にお会いしたのはおそらく 1997 年のこと.当時の環境情報学部では3年次進級とともに"研究会"という授業 (研究室に所属し研究支援活動を行い,単位も貰えるという日本独特?の仕組) が履修可能となるのだが,当時の私は真剣に進路を考えたこともなく,サークル等音楽にばかり夢中だった (日本の中の下の学部生の典型?できることなら当時の自分にきつくお灸をすえたい).学部の売りであった熱心なコンピュータ教育のおかげもあり,情報技術は好きだったので,コンピュータを使いながら音楽に関係することが出来そうらしい,くらいの軽い気持ちで古川研究会を受講することにした.3年次に何をやったか殆ど覚えておらず,おそらく授業も半分くらいしか出席しなかったのではと思うが,それでも古川先生は優しく接してくださったことだけは覚えている.

当時は気付かなかったが,学部生をはじめ,進む道を決めかねていることも多い研究室所属学生を導くのも役割の一つであると先生はお考えだったように思う.当時既に先生御自身は後にスキルサイエンスと命名される分野により傾倒されていたように思うが,当初の動機とは違い私はなぜか純粋なコンピュータ・サイエンス的なものにより興味を持ったところ,教え子にはもともとの先生のご専門であるハードコアな機械学習の道に進んだ方が何人かおり,特に嶋津恵子先生尾崎知伸先生に大変な指導を頂くこととなった.左右も分からない中,最終的に学部卒業時には,人工知能学会研究会予稿の執筆にも関わらせて頂いた.計算機科学,人工知能のごく基礎的なところすら身に付けておらず,その時題材にした決定木アルゴリズム (C4.5) のグラフィカルな出力が視覚的に面白くてなんか可能性を感じる,とかその程度の興味だったのだと思うが,何にせよ,後にちゃんと工学へ進んでみたいと思えるだけの刺激をこの時に頂いた.

上述した私のメンターの方々も,御弟子さんとして当たり前だが古川先生に助言を乞うており,そういう会話を傍目で眺めながら,私もようやく仕事人の会話を学び始めた気がする.一見のらりくらりとお話になるこの方が (大変失礼...),世界の計算機科学界で一流を張っておられたことを知ったのも,そういった会話を通してであった.エージェントアプローチ 人工知能 第一版 (AIMA, Artificial Intelligence: A Modern Approach. 1st edition) というアメリカをはじめ後に世界的に人工知能の教科書のスタンダード的存在になる本があるのだが,1997年に発刊された日本語訳書を手掛けたのが古川先生のチームだった.しかし学部生当時の私は AI の教科書なぞ気にかけるはずも無いから,研究室の書棚にあるやたらと分厚い (約1,000ページ) 本はどうも先生達が訳したらしい,というのは知っていたが,自分はこんな本には生涯を通じ縁がないと 150% 信じて疑わなかった.まったく,運命はわからないもので,10年後に後述の通り私は米国の工学大学院に留学するのだが,その時の授業で同じ本の第三版 (原書) を購入するはめになるとは (しかもかなり読み易く勉強になった)!今回,同書原著者の Dr. Stuart Russell (UC Berkely) に訃報をお伝えするとすぐに,古川先生がバークリーを訪れた時や御自身が学会で東京に行った時の思い出を寄せて下さり,また葬儀に献花もして下さった.

エージェントアプローチ人工知能 第2版

エージェントアプローチ人工知能 第2版

大学の夏季休暇中には毎年,長野の先生の山荘で合宿をしていたようである.ようである,というのは,私はそういうわけで学部の最後の一年間しか真面目に勉強しなかったため,一度しか合宿におじゃまする機会がなかったので,先のことも後のこともよく存じないだけである.先輩方のお話を伺う限りだと,昼間は論文等資料を大量に読み込むハードなものだったらしいが,奥様が食事を振る舞って下さりそれはそれはランチもディナーも満足させて頂いたのは覚えている.いま曲りなりにも工学の道に進んだ者として,夏の数日間を涼しい山の中で勉強だけしながら過ごすというのは,贅沢極まりない.後悔しきりである.

2005年から数年間,慶応大学に戻って仕事をしたのだが,上記の嶋津准教授のチーム所属となったこともあり,古川先生には頻繁にお目にかかった.この仕事は自分にとってとても試練で,同じフロアの方々によくよく気遣われたものだが,先生が三田のオフィスにおいでくださる時,オフィス入り口までお迎えに行き解錠するのは私の役目で,いつもあのはにかんだような,御自身を卑下されたような独特の表情をされていて,"いやー傘が壊れちゃいましてね,参りましたねー" 等と和ませて頂いた.その後ランチを3人+で,若者だけでは行けないような店に連れてって頂くのが常だったが,自分も仕事人としても5年以上経っており,"同業者"としての実のある会話ができても良かったはずだが,ついぞそういう機会は私自身はなかった気がする.私の程度の低さ故に特に絡むことができる要素も必要性もなかったのだろう.ただ,難航するプロジェクト運営について上司から相談は受けておられたのであろう,部下である私にも,言葉少なで穏やかな内にも厳しさもって諭して頂くことは何度かあった (当時の私は自信を失っていたので,そんな自分に言葉をかけて頂けるなんて,諦めちゃいかんな,と思った).あと完全に個人的想像に過ぎないのだが,1980年台の政府の ICOT プロジェクトのリーダー的役割という難職を終えて後に慶応に着任されているので,先生のあの超然とした雰囲気はきっとその余韻のようなものもあるのだろうとお察ししたりしていた.

2008年に私は今後数年間を将来のために立て直すことに使うと決め,仕事を辞し工学大学院に進学することにした.出身である慶応の環境情報学部は,所謂文理の垣根が無く,学部生はかなり自由に自分でカリキュラムを設計できる反面どっちつかずにもなりがち・私はまさにそうで,工学の基礎も弱いままだったため将来が不安だった.またどうせなら幼い頃から何となくの憧れだったアメリカに行ってやろうと思った.米国大学院の受験にはもれなく数通の推薦状が必要で,古川先生にそのうちの一通をお願いした.先にも書いたとおり慶応学部生時代はからきしだったし,その後の慶応の仕事でも特に印象付けるほどの活躍はみせていないはずで,そんな教え子とも言い難い卒業生に推薦を依頼されて果たして先生はどう思われたのだろう,というのは,後々に盃でも傾けながら伺ってみたいことの一つだった (それはとうとう叶わなかったが…).何にしろ御自宅近辺のベーカリーでお目にかかり正式に依頼をさせて頂いた際には,難色を示されることもなくただ頷いて下さり,当時私が興味としてあげていた宇宙開発にちなみ,御自身が関わられた JAXA のプロジェクトの話をして下さった.そしてママチャリをぎこちなく漕ぎながら帰っていかれた.

先生に初めてお目にかかってから20年経ち,私はロボティクス業界で,ゴリゴリの理工学出身な人達に囲まれながらソフトウェアエンジニアをしている.こんなことは当時はまっっったく想像すら出来なかったし,10年前,工学留学をおぼろげに着想し始めた頃でもいまこの立ち位置は予想だにしなかった.2013年には縁があり東京でロボティクスの非営利企業の起業に関わった (ほぼ二期務め2017年4月に退職).起業したことそれ自体には自分の中では特に誇りとかそういうポジティヴな感慨はまったく無かった・無いのだが,なぜか古川先生はたいそう激励下さったのを覚えている.今自分なりに振り返ると,20年前に古川研究会を履修希望した時のどうにもこうにも目星がつかない輩が,どうにかこうにか自分で歩いているのを喜んで下さったのだろうか.

今回こうして振り返ってみて気づき驚いたのだが,そも根無し草だった自分が工学方面に向いていったこと,大学院に行こうと向学の意識を持てたこと,どうせなら米国に行こうとチャレンジできたこと,これらは20年前に古川先生と出会い,お弟子さん方含め交流させて頂いてなければこうなっていなかっただろう.左へ右へ往ったり来たりでやっと自分も社会の人になってきた気がするところで,やっとそういった "大人の会話" もさせて頂くことができるかも知れないと思っていたし,きちんと御礼をお伝えし,これから少しでもお返ししていけるのかな,と思っていたところだったのだけど,お話ができるのはもう少しだけ先になりそうか.ご冥福をお祈りします.


2015年に嘉悦大学を退職されたのが最後にお目にかかる機会とは,思いもよりませんでした….