30歳過ぎから工学 vol.2

http://d.hatena.ne.jp/j130s/ から移行しました.オープンソースロボットソフトウェア技術者兼主夫. 高校・大学学部文系-->何となくソフトウェア開発業-->退職・渡米,テキサス州でシステムズ工学修士取得,しかし実装の方が楽しいと気付き縁があったロボティクス業界で再就職.現在 Texas 州内の産業用オートメーションのスタートアップに Georgia 州から遠隔勤務.

イチロー - こんな野球選手と同時代を生きられて良かった

イチロー引退会見を拝読してみて,凄すぎてもはや共感とかできない感じで,しかし彼と同じくらい己を律して仕事している人はこの世に沢山いそうだとは思った.勿論イチローは努力に対して結果を最大級に伴わせてきた仕事人だろうことは疑いないですが,スポーツとりわけ野球は数字に表れやすいという面もあるにはあるかなと.


勝手に残念に思ったのは弓子さんはじめ周りにいるであろうチームイチローへ限定的にのみしか触れられてなかったこと.家事とかぜったい一切してないでしょこの人.チョー感謝しまくって欲しいし,してると思う.既成の枠を壊しながら前進し続けて来た人だと思うので,周りへの感謝についても通常の仕事人以上に重点を置いて,誰も想像つかない方法で,言い及んだりするのかなとなんとなく楽しみにしてたけど.まあ夜中の会見だったようだし,今後ゆっくり期待します.


"日本人"だから応援したい,という視点はどうしても付いてくる一方,僕はオリックス・Seattle のファンではないので心中どこかで"敵"の主力選手なんですよね.だから類稀な存在として大活躍を続けて欲しい一方で菊池雄星とか贔屓チームの投手には圧倒的に抑え込まれるみたいなのがずっと見たかったけど (米の贔屓 Texas にいた CJ Wilson はイチローを2割未満に抑えた少ないうちの一人ではあるが),それも叶わず西武なんかいつもコテンパンだった印象.雄星なんかむしろ最後だけ同僚.


個人的に不幸があって気が沈んだ週末のこのニュース.こんな野球選手と同じ時代を生きられたこと自体,生涯の思い出になりそうです.

ある米国ロボティクススタートアップ企業に遠隔で働く生活

今の勤め先に就いて1年半くらい経ちました.米国のスタートアップってどうなんですか,というご質問を何度か頂いたので少しご紹介まで.あくまで一例ということで.なお,同じ米国内のスタートアップ企業でも,工学色が強い企業とそうでない業種の企業とではかなり色々異なったりもするようです.また,資金状態により組織管理に回せる資源も異なると思うので一応触れると,弊社は創業二年目,シード調達,2018年後半にシリーズA調達と二回の資金調達を経て合計で日本円だと凡そ12億円くらいの状態です.

スタートアップ,日本だとベンチャーという呼称の方が定着してそうですが,よく頂く質問に自分なりに答える形式で書いてみます.

忙しい?

人により忙しいの定義が違うのをふまえた上で,私の場合は忙しさは "ふつう" です.組織から求められた拘束時間は決してべらぼうに多くない.それに自宅からの遠隔勤務で,会議 (勿論電話やネット経由) 以外の時間の使い方は自由が利く等,裁量が多く認められてる感じることもあり,むしろ拘束時間には不満がない感じです (仕事好きなので空き時間の多くは自分の意志で仕事関連の事をしてることは多いですが).いっぽうで,精神的負担の面での "忙しさ" は多少あるかなと.目の前のチャンスを逃すと即ちに会社が潰れる可能性は常に隣り合わせなので,お客さんとのプロジェクトで先方側の変更にも敏感に可能な限り対応する意識は徹底しているように感じます.したがって捉え方次第では "振り回される" 状態にもなり得ますが,スタートアップだからある程度仕方無いと各自が処理しつつ,処理しきれない残りの部分はマネジャーに不平をぶつけるというサイクルが今の所回ってるのかなと.

オフィスが車庫である?

これは憧れますけどねえ〜,違います.西岸海洋性気候で一年を通して穏やかな気候のシリコンバレーならさておき,テキサスだと夏暑くなるので無理です.というのは半ば冗談として.真面目な話,スタートアップ企業の贅沢なオフィスとかよく記事とかで見ますし,賛否両論でしょうが,弊社は人件費に注ぎ込むとトップから宣言されていて,オフィス等アメニティは最低限に抑えられています.洒落たオフィスがあればなお良いけど,そうでなくてもモチベーションに困らない社員を確保出来てるということなのかも知れない.

無給である?

中にはそういうスタートアップ企業もあるかも知れませんが,あまり無いのではと思います.企業の方針によるでしょうが,成果を出さないとすぐ潰れるので,むしろ最速で成果を出すために給与はそれほどケチらずに優秀な人を確保したい会社が多いのでは.
なお米国は州ごとに所得税の割合や就労に関する法律が異なったり,地域により生活費に雲泥の差があったり等で,給与水準も場所により異なります.基本的に都会の方が人気があり生活費が高いため給与も高い傾向があるのでは.日本のメディアが大好きなシリコンバレー地域 (米国だとサンフランシスコ・ベイエリアみたいに呼ぶことのが多そう) は特に生活費の高騰が社会問題になりますが,やはり高給を取るエンジニアを大量に抱える超大企業が多いこともあり給与も高めに思う反面,ネットで見てる限りだと*1,現地のスタートアップ企業のすべてがそうべらぼうに高給なわけでは無く,むしろ中・大企業が例外的に高給なのかなと思ったりもします.私の勤務する企業は本社*2が給与水準が米国内では必ずしも高い方には入らないテキサス州の地方都市で,入社面接の際には,(カリフォルニア州在住の私を気遣ってか) ベイエリア価格は払えなくて申し訳ないんだけど,と気にしてもらいましたが,始まってみたら遜色無い感じです.テック産業の聖地であり,それ以外にも気候や文化など外から来る人には色々魅力的に映る点があるシリコンバレーでは,むしろ給与を多少抑えても人が来る?という背景もあるのかなと思ったりしてます.

無休である?

どうでしょう.これは想像ですが,組織として量的な面での勤務が決められているわけではなく,働きたければ無休に近い状態で働いても良いし,そうではない働き方を選ぶ人もいる,そういう状況なのではないでしょうか.私の勤務先は創業者3人共に30台中盤以降・子持ち,企業・人生経験豊富なオッサソ達ということもあるのか,個人の事情は最大限理解してもらってると思いますし,いわゆる Work-Life balance を取ってこそより生産性が上がるはず,ということになってると思います.実際,仕事の進捗状況や出張等で避けられない場合を除き,土日には Email がパッタリ止まります (とはいえ多くの社員が週末も何かしかの仕事はしてそうですが).私も正直,馬車馬のように働くという印象をスタートアップ企業にはもっていました (し,憧れてもいた) が,一方で家庭の事情で急な休みが多くなりがちなこと (妻が仕事の事情で日程の融通がほぼまったく利かない,休日がたまにしか取れない等により,平日の朝夕,週末含めて子育て等家庭の事,非常時の対応等は私が主にしています) や,そもそも妻の仕事の都合により引越すつもりは無く基本遠隔のみの勤務となる事なども理解してくれました.他の社員もそれぞれ色々相談しながらやってるようです.正直,仕事内容は勿論ですが,個人の事情を尊重してもらえてる感が今の勤務先はとても有難いと思っています.

ロボット業なのに遠隔勤務ってどう?

産業用ロボット等ハードウェアを含めたシステムを扱うので,現地で手足を動かすのが必須なのは言うまでもありません.基本的には物資は本社の実験室に設置し,自宅には最低限のハードウェアしか置いてません.自分の担当箇所のハードウェア含めた作業は,現地社員とやり取りしながら何とかやっています.動画通話は欠かせません.社屋には遠隔者用にテレプレゼンス機 (台車の上にカメラ,マイク,モニタ等が付いており,遠隔から操作して社屋内を移動,会話できる装置) もあり私はよく利用しています.VPN 経由で遠隔ログインしてソフトウェア操作しつつ,物理的なことは現地社員にやってもらい,自分はテレプレゼンスで挙動を確認するとか.今の所どうにかなってはいるか.

会社員として遠隔勤務ってどう?

社員の2割程度が遠隔勤務で,遠隔者が複数人になった街ではオフィス借りたりしててちょっと羨ましい.今のところ私含め全員がシニアレベルです.以前は学生インターン (工学のトップスクール在学中) を遠隔で雇って生産性が上がらなかったなんて苦い経験もあったらしい.また,本社付近に住む社員でも,色々な理由で出社せず働く日はしょっちゅうあるようです.これまでのところ最もクリエイティブな出社不可理由は,車庫の前に雉が居て車が出せない,というのかな.縛りが行き届かないスタートアップならではの環境を享受してはいます.
州外社員は,これまではテキサスの "本社" に3ヶ月に一度集まる機会を頂いていました.新しい社員も毎月入社しているし,やはり一度会ってるのと会ったことがないのとでは全然違います.しかし私の場合カリフォルニアからの移動で乗継ぎ含めどうしても計10時間以上で生産性は落ちる上,仕事は忙しくなる一方なので今後はどうなるか.全社員が遠隔で働く Gitlab 社等他社を参考にしながら,遠隔社員の働き方は少しづつ変わって来ています.

私は直近5,6年は遠隔中心の勤務なのですが,対面できる同僚がいるオフィスという環境にメリットは多いと思うし理想的には自分もそういう働き方をしたいとした上で,ロボティクス関連の技師として日々の仕事を進めるうえで遠隔勤務に深刻な不都合は感じていません.コミュニケーションツールを使っての作業に今の勤務先の同僚が我慢してくれてるのは大きいと思います.もし技術習得が限定されると困りものですが,担当分野を割とハード問わない方面にしているのもあり,インターネットで調べたり授業を受けて補うこともできるし,あまり大きな障害ではないかなと.妻は仕事外で同僚とつるむことができない私の状況を心配してくれてるようですが,それは他の機会で作れば良いし,そもそも小さい子達と家事の面倒で夜はどうせ外出できないし,今は良いかなと.
では何が遠隔の短所になり得るかというと,意思決定や他者の感情を汲みながらの作業等の経験は減るかなと.日々誰かと対面しながらの作業だと,大小様々な意思決定を,他者の気持ちを尊重しながら行いますが,遠隔で他者の微妙な機微が見えにくい中での仕事だと,論理のみで感情面の思慮は薄いまま決めごとを進めてないかな,と自分を省みて感じます.もちろん,目の前の仕事がそれで進むのであれば当面まったく問題無いとは思いますが,5年先10年先のキャリアを考えた時に,対人的な部分を研ぎ澄ます機会が少ないのはちょっと考えどころです.

*1:glassdoor.com 等を参考に.

*2:本社とかいうほどの規模はないが,他州にもオフィスがあるので間違いでもない.

悪いのは合意してない役割分担であって亭主関白自体ではないはず

ノーベル賞に内助の功 強調するメディアに「違和感」も - asahi.com

この記事,亭主関白的な関係に対して説明もなく否定的になっているけど,夫婦等パートナー間の役割分担について同意納得が得られてるのであれば問題無い筈というか,少なくとも外野が口を挟む話では無いと思います.なので美談に (というか賞賛) するなら "(おそらく) 同意された役割分担が機能した" 点であって,それを無視して所謂 "内助の功" 的な関係だったことを殊更に取り上げるのは筋違いと思う.私の世代の友人にも,どちらか片方がガンガン働いてもう一方は家を守る感じで幸せそうなカップルは何組もいて,それを否定するのかと.

と,頑張って正論を試みたところで,"私の方が (諸処の状況が) 向いているので子育てを (主に) 担った" 側の人間としては,納得してやってるとはいえ日々積み重なっていく気持ちの晴れない部分があって,他にもそういう人達が居ると知ることができるのは気持ちの支えになります.私達夫妻は妻の仕事を優先していて (かつ私もフルタイム勤務するのが条件だけど),仕事 ・趣味に没頭できる立場を与えられたお父さんお母さんを見ると,正直妬みは出てくる (が,無条件に批判はしません.筋違いだし,大人だし).なのでサポートにまわった側の方々を公に褒めるのはもっとやってくれよ,と思う (ご本人達が望まない場合を除き) し,ましてノーベル賞とかなら尚更.

亭関の事例は前世紀に沢山出て成果も分かってきたところで,今世紀は他のスタイルに脚光をどんどん当てて欲しいと思います.

オンリーワンとロールモデル

トヨタとソフトバンクが組んで会社を作るというニュース,学部の時の同級生が取締役に御就任されるとのこと.十五年くらい前まだ二十代wでキャリアに悩み暗中を這っていた時に,偶然みたオープンソースコミュニティのメーリングリストで彼が議論をまとめたりしてるのを見て,(今考えると変な話だが) へー日本人でも活躍できる世界なんだなー,と,当時は刺激だけ受け取ってましたが,それから十年も経たずに自分もオープンソース業界でどうにかこうにか話を出来るようまでになり,活動場所を得たり,と思えるようになった.その一端には,迷ってどうしよもない若い頃に見たかつての同級生が先を行く姿は,確実に影響してると思います.

ノーベル医学賞の本庶氏のエッセイFacebook 上の知人曰く,(このエッセイに限らないのだと思うが) これを読んで共感できる等と相槌を打つのは僭越で,理解できる箇所を自分の都合に良く解釈しているに過ぎないのでは,と.その知人の言には静かな感動を覚えました.その言に従いつつエッセイに絡んでコメントすると,研究者はオンリーワンを目指すべきなのだそうです.ヒット曲のタイトルにもなってますが,闇雲にユニークであれば万事宜しいわけではなく,じゃあオンリーワンとはどういうこと?と研究者でなくとも考えることがありますが,その際に,自分の向き不向きと向き合うことは避けられないなあと思います.

かつて厳しく指導をして下さった方が,私はエース級の技師を目指し,真似するべきではない,と当時言われました.その時に外注先の IBM 研究所のマネジャの方何人かと一緒に仕事させて頂くことがありました.PhD 持ちで大学講師も務めるような"エース級"の方は,技術的な問題があった際,マネジャとしてのタスクの扱いは勿論行ったうえで,専門知識を活かしつつ御自身で深く洞察した上でチーム内での解決に活かしている感じで,一緒に研究を進めましょう,という印象を顧客である私達に与える感じでした.一方,私にむしろ参考にすべきと示されたのは同社の別なマネジャの方で,私の印象だとその方はチームが最も機能するよう調整することに徹している印象でした.後で聞いたところによるとその方も同社製品開発で実績があり技術者として優秀な方でしたが,プロジェクトマネジャとして客先に来られている時は,問題をチームで効率的に処理することに集中し,さばさばとした印象でした.それら方々のどの部分を指して私に真似すべき・すべきではない,と仰られたのかは結局深く話しする機会がなかったのではっきり分からないのですが,ロールモデルとなる人を持つことを明示的に意識した瞬間でした.

このブログタイトルにもしている通り,30過ぎてから本格的に工学に転向しました.30にして大いに惑い,アメリカに渡って修士を取り,シリコンバレーで"エース級"が集まる企業への潜入 に成功し (&すべてにおいて圧倒的な差を目の当たりにして打ちひしがれる),広い工学業界で冒頭のように自分が向いていると思える居場所を見つけ,40歳も半ばに指しかかろうとしています.大きな大きな遠回りでしたが,もし30代を基礎習得に捧げていなかったら今どうなっていたかと思うと本当に良かった.いっぽう,言い訳半分ですが,数学的思考をはじめ10代・20代で勉学に打ち込むのに比べると30代はパフォーマンスは相当落ちると思う (確証はない).そもそも元々の工学的センスも欠けています.今に至り,日々の業務や,業界内で起きていることを見知るにつけ,十分深く追求するには至らなかった事は折々に後悔となって顕れます.基本的に2年間で修了する修士過程に進むべきか,5年以上かかるとされる博士過程に進むべきかを迷った際に判断の軸にした事の一つは,ロールモデルの方々で,最終的には早く仕事復帰して経験を積むべく修士に進みました *1.しかし,どうせ学校に戻る決断をしたのであれば,数年更にかかってもとことんやっておいたなら今頃どうなってたかな,とは思いますが.何にせよ,今後もずっと,おそらく引退するまで,勉強し続けないとやっていけないのが技師という仕事かな?と思います.

*1:これには色々誤解があり,特に少なくとも米国の工学の博士過程は,学業を本分としつつも,仕事としての経験も多く積む.そもそも学費免除な上に給与が出る身分

米国スタートアップ企業での日経誌購入

勤務先は創業ほぼ1年で社員数も (やっと) 10人を越えましたが,いまだ私は唯一の英語非ネイティブ.もちろん日本語使える人も1人だけ,仕事内容も今のところ日本まったく関係無し.そんな中で日本語雑誌の社費購入をお願いしてみたら二つ返事でオーケー来ました.毎号の見出しは訳しますが,お後は翻訳技術でよろしくと.

ボス達を見てるとアメリカの人々は/も業界情報は人伝てで仕入れつつメディアで補完する,くらいなのかと感じています.創業者達みんなオッサンなので,これまでに築いてきた人のネットワーク自体が資源なのかなと.で,地理・文化的に遠い日本やアジアの業界情報はメディア頼みになりがちなんだけど,英語メディアだとどうしても遅れたり薄かったりなので,今回の雑誌購入はそこら辺の情報源として期待されている感じです.この日経 Robotics 誌は,個人的には月刊誌としてはページ数考慮すると割高に感じるけども,そういうわけで情報源への投資には積極的だし,そう考えると別に高額じゃないネ,といったところなのか.

日経 Robotics

元西武ライオンズ投手のご逝去

今年に入って悲しいことにお二人の訃報が報じられた.お二人共に選手時代は私も球場で観客として見たこともあるし,思い出を共有しておきたいと思いました.

左腕のアンダースローの走り的存在と誉高い同氏.
私がその存在を知ったのはプロ野球ファン・西武ファンになって選手名鑑を読み込んでいた1984年か.永射投手の紹介欄には,2年経った当時でも,1982年プレーオフ優勝決定戦での先発登板 (永射投手の登板はほぼ中継ぎ) のことが書かれていた.自分の中では,先発投手は豪球か豊富な球種かを持ってるのが条件だと当時思っていたので,確かに球は速くないし球種もカーブ系しか無さそうに思った永射投手の先発は,相当意外だったのだろうな,と思った.
1985年5月5日のこどもの日の阪急戦,産まれて初めてプロ野球を観戦した試合,中継ぎ登板した永射投手を一塁側内野席で見た時には,一塁側に物凄くインステップしていて,あーこれは TV で観てた時には分からなかったな,こういうのは左打者はきっと大変なんだろうな,と思ったものでした.
同年阪神タイガースとの日本シリーズではバース・掛布を抑えこんでました.第一戦8回にピンチで三冠王バースを迎える場面は,私も他の方も言っているようになんで永射じゃなくて工藤なんだろう,と小学校4年生ながら思いました.
その後トレードで西武を出られてからはあまり追っていなかったですが,つい先日ふと気になって Wikipedia を見て,マスターズリーグにも元気に参加されていたこと,ピンクレディーのサウスポーの元ネタだったことなどを知り,感嘆していたところでした.

1997年対ヤクルトとの日本シリーズ第二戦,ブルペンで投げる森投手の球を見て,観戦していたライトスタンドの応援席からでも球が唸ってそうなのがわかり,改めてプロの投手とか,それを捕る捕手,たまに打つ打者って物凄いな,と思ったものでした.
その後リリーフ投手としての大活躍を経て渡米したものの,登板しないまま退団せざるを得なかったこと,プライベートで結婚の問題が報道されたこと,日本に戻り独立リーグの監督をなさってから西武のスタッフになられたのは知っていました.
が,誠に失礼ながら正直言うと,長髪の風貌やや豪球一直線のスタイルなどから,良い印象を持っていなかったのは事実です.今回お亡くなりになって沢山記事を拝見し初めて,多くの人に愛されていた方であり,米国で相当な失意を経たであろう後に,指導者という新たな職に真面目に取り組まれ,プロ野球のチームにも請われて復帰しまさにこれからというところだったのを知りました.偏見を持って見ていたことがまったく恥ずかく,申し訳ないです.

選手として指導者として夢を見させてくれたお二人のご冥福をお祈りします.

古川康一先生の個人的思い出

2017年1月末,古川康一先生が急逝されました.私は米国で育児等しており,急遽執り行われた葬儀に駆けつけることも叶わず,当日は20年来の思い出を日記にして先生を偲びました.日本語だと読んでくれない妻 (や他の家族) とも共有したいと考えたのと,そもそも計算機科学の分野において世界に功績を残された古川先生にしては英語の記事が少なすぎるということに気付いたのとで,日記はここに英語で書いたのですが,日本語でも読みたいと要望を頂いたので次の通り訳しました.

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先週,大学学部時の学習アドバイザが亡くなった.二ヶ月前に最近の研究成果をやっと書籍として発売され,研究室 OG・B にもその連絡を頂いたばかりで,早速次の目標に向かっておられる様子を伺い知れ,"さすがお元気な先生,今年も張り切っておられる" と,ある意味いつもの先生だと,特段気にとめなかった,その矢先だった.先週は訃報が届いた後,卒業生グループは悲しみにくれる間もなく御葬儀のお手伝いに奔走された様子で,私も住んでいる米国からできることをしたのだが,色々思いが巡る中で,自分のこれまでの人生で古川先生とその教え子グループメンバとから受けた影響の大きさに気付くこととなった.

ここに自分のできる限りの古川先生の記憶を綴っておく.そうこうしてるうちにだいぶ長ったらしくまとまりのないものになってしまったが,公式追悼文でもなく (先生の下で博士号を取られた先輩方を差し置くつもりも毛頭ないし),また内容に誤りもあるかも知れないのを予めご容赦頂きたい.本文は,極めて率直な,個人的な先生との記憶である.英語で記しているのは,日本国外の先生のコラボレータの方々にも届けば,私のちっぽけな経験でも在りし日の先生との御記憶を少しでも彩ることに助力出来ないか,と考えたのと,あとは個人的で恐縮だが私の米国人家族に,古川先生の薫陶のもと自分が20代・30代何をしていたかを知ってくれればという思いからである.いま40を過ぎ,自分なりにあっち行ったりこっち行ったりしながら何とかやっとこさ芯ができてきたキャリアにはある程度満足しているが,ここまでやってこれたその大もとには先生との出会いがあった.

まず,日記を書き始めて気付いたのだが,世界の研究コミュニティでの存在感に反し,英語で書かれた先生の紹介がネット上でほぼ見つからない.これはネットが隆盛した90年後半以降よりも前から活躍をされていた研究者の方には仕方のないことなのかも知れない.本の中身を検索できる Google の機能を使い,"The Quest for Artificial Intelligence" という書籍中にあった下記紹介を引用させて頂く (日付は著者が更新).慶応ご退職が2008年だったことを考えると少なくとも過去10年以内に書かれた書籍ということで,ここで紹介するのも妥当かと思う:

Koichi Furukawa (1942-2017), a Japanese computer scientist, was influential in ICOT's decision to use PROLOG as the base language for their fifth-generation machine. Furukawa had spent a year at SRI during the 1970s, where he learned about PROLOG from Harry Barrow and others, Furukawa was impressed with the language and brought Alain Colmerauer's interpreter for it (written in FORTRAN) back to Japan with him. He later joined ICOT, eventually becoming a Deputy Director. (He is now an emeritus professor at Keio University.)

上の内容に微力ながら少し付け加えると,直近の20年間ほどは"スキル・サイエンス"という,古川先生とお仲間が提唱した学問分野にシフトされていた.誤解を恐れず要約すると,人間の複雑な物理的動作を科学的手法により解明しようとするもので,古川先生の場合はとりわけ自ら被験者となり,御自身のチェロ演奏力向上に役立てられていた (先生のチェロ好きは学界では有名な話らしく,事あるたびに会議でも演奏されていたようだ.Jacques Cohen,Alan Robinson,Jack Minker らと "Logic Programming Trio" なる geek 極まりない名前の三重奏グループも結成しておられた).

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Brandeis 大学の Jacques Cohen のサイト上の幾つかの写真をここに引用させて頂きます.

さて,ここから個人的体験を綴ることになる.再度のお願いとなるが,先生の優秀なお弟子さん方とのやり取りとはまったくかけ離れたものであるのが申し訳ない.私が初めて先生にお会いしたのはおそらく 1997 年のこと.当時の環境情報学部では3年次進級とともに"研究会"という授業 (研究室に所属し研究支援活動を行い,単位も貰えるという日本独特?の仕組) が履修可能となるのだが,当時の私は真剣に進路を考えたこともなく,サークル等音楽にばかり夢中だった (日本の中の下の学部生の典型?できることなら当時の自分にきつくお灸をすえたい).学部の売りであった熱心なコンピュータ教育のおかげもあり,情報技術は好きだったので,コンピュータを使いながら音楽に関係することが出来そうらしい,くらいの軽い気持ちで古川研究会を受講することにした.3年次に何をやったか殆ど覚えておらず,おそらく授業も半分くらいしか出席しなかったのではと思うが,それでも古川先生は優しく接してくださったことだけは覚えている.

当時は気付かなかったが,学部生をはじめ,進む道を決めかねていることも多い研究室所属学生を導くのも役割の一つであると先生はお考えだったように思う.当時既に先生御自身は後にスキルサイエンスと命名される分野により傾倒されていたように思うが,当初の動機とは違い私はなぜか純粋なコンピュータ・サイエンス的なものにより興味を持ったところ,教え子にはもともとの先生のご専門であるハードコアな機械学習の道に進んだ方が何人かおり,特に嶋津恵子先生尾崎知伸先生に大変な指導を頂くこととなった.左右も分からない中,最終的に学部卒業時には,人工知能学会研究会予稿の執筆にも関わらせて頂いた.計算機科学,人工知能のごく基礎的なところすら身に付けておらず,その時題材にした決定木アルゴリズム (C4.5) のグラフィカルな出力が視覚的に面白くてなんか可能性を感じる,とかその程度の興味だったのだと思うが,何にせよ,後にちゃんと工学へ進んでみたいと思えるだけの刺激をこの時に頂いた.

上述した私のメンターの方々も,御弟子さんとして当たり前だが古川先生に助言を乞うており,そういう会話を傍目で眺めながら,私もようやく仕事人の会話を学び始めた気がする.一見のらりくらりとお話になるこの方が (大変失礼...),世界の計算機科学界で一流を張っておられたことを知ったのも,そういった会話を通してであった.エージェントアプローチ 人工知能 第一版 (AIMA, Artificial Intelligence: A Modern Approach. 1st edition) というアメリカをはじめ後に世界的に人工知能の教科書のスタンダード的存在になる本があるのだが,1997年に発刊された日本語訳書を手掛けたのが古川先生のチームだった.しかし学部生当時の私は AI の教科書なぞ気にかけるはずも無いから,研究室の書棚にあるやたらと分厚い (約1,000ページ) 本はどうも先生達が訳したらしい,というのは知っていたが,自分はこんな本には生涯を通じ縁がないと 150% 信じて疑わなかった.まったく,運命はわからないもので,10年後に後述の通り私は米国の工学大学院に留学するのだが,その時の授業で同じ本の第三版 (原書) を購入するはめになるとは (しかもかなり読み易く勉強になった)!今回,同書原著者の Dr. Stuart Russell (UC Berkely) に訃報をお伝えするとすぐに,古川先生がバークリーを訪れた時や御自身が学会で東京に行った時の思い出を寄せて下さり,また葬儀に献花もして下さった.

エージェントアプローチ人工知能 第2版

エージェントアプローチ人工知能 第2版

大学の夏季休暇中には毎年,長野の先生の山荘で合宿をしていたようである.ようである,というのは,私はそういうわけで学部の最後の一年間しか真面目に勉強しなかったため,一度しか合宿におじゃまする機会がなかったので,先のことも後のこともよく存じないだけである.先輩方のお話を伺う限りだと,昼間は論文等資料を大量に読み込むハードなものだったらしいが,奥様が食事を振る舞って下さりそれはそれはランチもディナーも満足させて頂いたのは覚えている.いま曲りなりにも工学の道に進んだ者として,夏の数日間を涼しい山の中で勉強だけしながら過ごすというのは,贅沢極まりない.後悔しきりである.

2005年から数年間,慶応大学に戻って仕事をしたのだが,上記の嶋津准教授のチーム所属となったこともあり,古川先生には頻繁にお目にかかった.この仕事は自分にとってとても試練で,同じフロアの方々によくよく気遣われたものだが,先生が三田のオフィスにおいでくださる時,オフィス入り口までお迎えに行き解錠するのは私の役目で,いつもあのはにかんだような,御自身を卑下されたような独特の表情をされていて,"いやー傘が壊れちゃいましてね,参りましたねー" 等と和ませて頂いた.その後ランチを3人+で,若者だけでは行けないような店に連れてって頂くのが常だったが,自分も仕事人としても5年以上経っており,"同業者"としての実のある会話ができても良かったはずだが,ついぞそういう機会は私自身はなかった気がする.私の程度の低さ故に特に絡むことができる要素も必要性もなかったのだろう.ただ,難航するプロジェクト運営について上司から相談は受けておられたのであろう,部下である私にも,言葉少なで穏やかな内にも厳しさもって諭して頂くことは何度かあった (当時の私は自信を失っていたので,そんな自分に言葉をかけて頂けるなんて,諦めちゃいかんな,と思った).あと完全に個人的想像に過ぎないのだが,1980年台の政府の ICOT プロジェクトのリーダー的役割という難職を終えて後に慶応に着任されているので,先生のあの超然とした雰囲気はきっとその余韻のようなものもあるのだろうとお察ししたりしていた.

2008年に私は今後数年間を将来のために立て直すことに使うと決め,仕事を辞し工学大学院に進学することにした.出身である慶応の環境情報学部は,所謂文理の垣根が無く,学部生はかなり自由に自分でカリキュラムを設計できる反面どっちつかずにもなりがち・私はまさにそうで,工学の基礎も弱いままだったため将来が不安だった.またどうせなら幼い頃から何となくの憧れだったアメリカに行ってやろうと思った.米国大学院の受験にはもれなく数通の推薦状が必要で,古川先生にそのうちの一通をお願いした.先にも書いたとおり慶応学部生時代はからきしだったし,その後の慶応の仕事でも特に印象付けるほどの活躍はみせていないはずで,そんな教え子とも言い難い卒業生に推薦を依頼されて果たして先生はどう思われたのだろう,というのは,後々に盃でも傾けながら伺ってみたいことの一つだった (それはとうとう叶わなかったが…).何にしろ御自宅近辺のベーカリーでお目にかかり正式に依頼をさせて頂いた際には,難色を示されることもなくただ頷いて下さり,当時私が興味としてあげていた宇宙開発にちなみ,御自身が関わられた JAXA のプロジェクトの話をして下さった.そしてママチャリをぎこちなく漕ぎながら帰っていかれた.

先生に初めてお目にかかってから20年経ち,私はロボティクス業界で,ゴリゴリの理工学出身な人達に囲まれながらソフトウェアエンジニアをしている.こんなことは当時はまっっったく想像すら出来なかったし,10年前,工学留学をおぼろげに着想し始めた頃でもいまこの立ち位置は予想だにしなかった.2013年には縁があり東京でロボティクスの非営利企業の起業に関わった (ほぼ二期務め2017年4月に退職).起業したことそれ自体には自分の中では特に誇りとかそういうポジティヴな感慨はまったく無かった・無いのだが,なぜか古川先生はたいそう激励下さったのを覚えている.今自分なりに振り返ると,20年前に古川研究会を履修希望した時のどうにもこうにも目星がつかない輩が,どうにかこうにか自分で歩いているのを喜んで下さったのだろうか.

今回こうして振り返ってみて気づき驚いたのだが,そも根無し草だった自分が工学方面に向いていったこと,大学院に行こうと向学の意識を持てたこと,どうせなら米国に行こうとチャレンジできたこと,これらは20年前に古川先生と出会い,お弟子さん方含め交流させて頂いてなければこうなっていなかっただろう.左へ右へ往ったり来たりでやっと自分も社会の人になってきた気がするところで,やっとそういった "大人の会話" もさせて頂くことができるかも知れないと思っていたし,きちんと御礼をお伝えし,これから少しでもお返ししていけるのかな,と思っていたところだったのだけど,お話ができるのはもう少しだけ先になりそうか.ご冥福をお祈りします.


2015年に嘉悦大学を退職されたのが最後にお目にかかる機会とは,思いもよりませんでした….