30歳過ぎから工学 vol.2

http://d.hatena.ne.jp/j130s/ から移行しました.オープンソースロボットソフトウェア技術者兼主夫. 高校・大学学部文系-->何となくソフトウェア開発業-->退職・渡米,テキサス州でシステムズ工学修士取得,しかし実装の方が楽しいと気付き縁があったロボティクス業界で再就職.現在 Texas 州内の産業用オートメーションのスタートアップに Georgia 州から遠隔勤務.

日系人,米国で育つ,時々日本にもゆく

海外子女教育新興財団というところが発行する海外子女教育という月刊誌があります.長男が通ってる日本語補習校を経由して無償で入手させてもらえていて,どれほど発行部数あるのか不明ですがかなり肉厚な月刊誌.

この10月号 (joes.or.jp)の文芸コンクール受賞作品で中3の方が書いた "謝ってよ" という題名の文章が強烈です.うちの子らと同じく北米で育ってる方のようで,他人事と思えず.転載でなく要約なら問題ないかと期待しつつ以下:

  • 小学校は毎夏日本の小学校に短期入学し,友達によくしてもらったが,複数の小学校から生徒が集まりより大人数になる中学校では,当人が夏に短期入学すると既にグループができていて,小学校で仲良くしてもらった友人達にもなぜか無視された.学校でいつも一人だった.
  • 歴史の授業で第二次大戦での日本の被害を学び,級友に "アメリカ人なんでしょ?原爆のこと謝ってよ" と言われた.米国でも小4の時に真珠湾を学んだ際,級友に "日本はどうして攻撃してきた?ひどいじゃないか" と言われた.いつも不思議に見られながら誇りを持って昼食時に食べていたおにぎりを,その日は食べられなかった *1
  • この2つの出来事を経て,日米の歴史教育が自国の被害しか教えてないと感じた.歴史的出来事を一面からしか知らないと,当事者以外に対して敵対心を抱えたままとなり,協調,平和といった話合いは難しくなるのでは.
  • 歴史や社会問題を一面でなく色々な観点で見る機会を提供するのが自分の役割と悟った.冒頭のような皮肉を言われたとしても,対話のきっかけと捉えたい.

日本の農村地域で生まれ,学校で習う内容に時に違和感は感じれど,行動するほどではなかった自分にも思い当たるフシがあったりします.米国に来て自分がマイノリティ側になったり,近隣アジア諸国から来ている人に罵声をかけられたこともあったりして,少なくとも自分が学校教育の内外で得てきた知識の一/寡面性には気付くことができた.

しかし最も衝撃なのは自分のことではなく,私の子らがこんご似た経験をし兼ねないという事実.年初にも書いた通り夏休みに日本の小学校に短期入学させてもらうことを検討していますが,言葉も文化も断片的な子らが馴染むことが出来るか.米国の学校で,少数派のアジア人として,誇りを持てるか.歴史認識と言った大きく複雑な領域では大人ですら無知で,増して日米のような立場の異なる二国の観点なんて子供に持ちようがなくても仕方無いでしょうから,厳しい経験をするのは仕方のないことなのかなと想像はつきます.子供達が結局は自分で乗り越えることなのだろうと思っていますが,傍らに居る親としても易しい経験じゃないんだろうと思います.この文章の作者のように葛藤を経て極めて前向きに考えられると素晴らしいですが,そうならずむしろ屈折してしまったとしても,親としては寄り添ってやらないと.

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6歳児は乳児の妹が大好き.この子らがこれから色々な楽しいことも苦しいことも助け合いつつ乗り越えてく…んですかね?今だけ見てるとちょっと信じられない.

 

*1:妻も経験あるみたいですが,おにぎりを知らないお子さん達からすると,ご飯を握ったものという時点で既に違和感ある上に,黒い海苔が決定的に奇妙に映るんだそうです.

Braves 優勝.地域スポーツは常にほどほどにチェックしないと

引越して来て2年目の地 Atlanta の野球チームが20数年ぶりに優勝,小学校でも沸き立ってるらしく子が親にひいきの野球チームを訊いてきますが,"Braves" と期待してる所へ私は間髪入れず"西武ライオンズ"と返し,聞いたこと無い名前にポカーンとさせてます.

地域のスポーツチームを応援するのは人付き合いはじめ米国生活ではで大いに役立つ気がしますが,私がいつ Braves 応援に腰を入れるのかも決まらない (新しいスポーツチーム応援するのには少し調べたり等,高くはなくとも心中に敷居がある).私は地元という地元は米国には未だ無く,7年住んだ Sacramento が最長,一方4年弱住んだ Dallas は妻の出身・かつ野球とバスケで盛り上がった経験があるので理由はある.今後ゆっくり考えればいいか.

今年は野球チェックする時間と心の余裕もないまま気がついた時には優勝しててむしろ驚いたわけですが *1パンデミックで集会自粛,州外企業への在宅勤務で同僚がみんな州外,とか色々絡んで気付く機会も減っていたか.優勝なんて次回いつ機会が来るかわからないし,機会を逃した感がハンパないですが,一方で今年はパンデミックと家庭環境とで,野球見に行くどころじゃなかったししょうがない.趣味や余暇は人それぞれですが,小さい子の育児真っ最中,余暇の過ごし方にまで選択を迫られるのが実情です.

なお西武ライオンズは42年ぶりに最下位.ファン歴37年なので最下位は初めて見る景色.6歳児に流行りに流されない大人の誇りを見せてる気分になってる裏で,勝利数より敗北数の方が多いチームを応援するというファンとしての試練も密かに経験中.

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6歳児が一番よく着るスポーツ関連の服はなぜか両親親戚含めまったく縁のない地域・チームのシャツw.自身に関連のない (外国の) スポート/大学名の入った服を着るのは,日本だと普通にアリな気がするけど,米国だと住んでる地域外だと,"なんで?"という関心を集めやすく,何の縁も無い場合,説明に窮します.

 

*1:慌てて選手一覧チェックして,Greg Maddux 等前回優勝時の主力選手はやっぱ居ないよねーアハハと笑いを取るのが精一杯か,と思ってたら,前回優勝知ってる大人の層は地元民でも同じ冗談言っててウケた.

キャリア中間点を過ぎて仕事をスローダウンするか

6年くらい前までは自分は仕事に生きるタイプだと信じて疑ってませんでしたが,数年経った今や家庭第一にしつつ,それ以外の時間をフルに使って仕事をしたい,というかそうするしかないかな,と改まってきました.一般的には仕事が円熟するはずといっていい40代も半ばを過ぎましたが,私の場合40歳台が深まるにつれ家庭の負担は増える一方,とても仕事に集中できる状態とは言えず,現職では遂にあまり忙しくない仕事に配置換えとなりました.それでもまだ十分な成果を出せずにおり,今後さらに進んだスローダウンをすべきかどうか検討中です.

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今年40歳代の後半に突入しました.よく調べていませんが多くの組織が65歳で定年制を採っているとすると,フルタイムで雇ってもらえるのは残り20年を切った,と考えておくのが良いと思っています (実際65歳を越えてもフルタイムで働いておられる方は,自営業,名誉職等多くおられますが).一回り離れている妻がが引退する頃まで元気でいたく *1,そのためには働き続けることが効果的かなと思っています.


25歳の時に就職して以降20年間キャリアの面で色々ありました.日本企業に始まり,私立大学の研究所,一念発起で渡米し工学修士取得,ロボット/自動化業界へ転向,米でフルタイム・それも業界の綺羅星的な企業で取る寸前で日本へ帰国 *2,東京で非営利企業を起業,退職し米国スタートアップに参加.4年経ち今に至る過程でも,初めの3年はリーダー職,大事にしてもらった気がしますが,最後の一年で中間管理職の下に入った後に一転,リーダー職を自ら降り,その後さらに望まない部署への配置転換.今に至ります.


世間では40代は仕事人として最も脂が乗る,などとも言われます.一方で"もう若くない"という言葉が自分に例外でないのはひしひしと感じ,残り時間が減ってきているという思いはあり,できれば集中して成果をあげていきたいところ.しかしながら,自分の状況は40歳以降3人の子を授かったり,妻の仕事を支える必要もあったりで,落ち着いて仕事に集中するどころか,ここへ来て少しスローダウンしています.


子供はどうやら何歳になっても手がかかるらしく,まして7歳に満たない子が3人もいるうちは,例え昼間の仕事時間を学校や保育園で確保しても,どうしても想定内外のことが起きて仕事を中断せざるを得ません.妻の医療業界はそういう時に融通をきかせにくいらしく *3,一方スタートアップとはいえ非喫緊の業務を行う企業勤め *4 の私は幸い家庭の問題に関しては柔軟に対応させてもらえたこともあり,これまでそういうった "ダウンタイム" は私が担ってきましたし,これからも例え勤め先が変わったとしても多くの場面で家のこと・至急のことは私の担当となるように調整していくだろうと思っています.2人目の子まではヒーヒー言いつつもなんとか対応しました.しかし今年は3人めの乳児を抱え,パンデミックでいつもなら無いような制限が加わり,かつ家の購入と引越しで短期ですが集中的に負荷が一気に上がり,既述の通り仕事も面白くなく,パフォーマンスが一気に下がりました.第3子が産まれた後,3/4 ほどの育児時短 (規定8時間/日の勤務を6時間にする等) にしてもらいましたがそれも終了したので,新しい部署で全開に頑張らねばいけないところですが,今週も子らの学校がコロナで一時的に閉鎖になったりで,スピードが乗り切りません.引越してきたばかりの街は小さくて住みやすそうですが,ベビーシッターのなり手の中心世代と思われる20代人口が少ないのか,選ぶ手数多だったアトランタと異なり,人探しが難航しています.


丁度上司が代わり (頭に血が上って書いた感じのする記事以降,件の上司が当人の理由によって突然退職した),パートタイムへの転向を考えているかどうか聞かれました.寝耳に水,それまで一度たりとも検討したことは無い発想でした.新上司は,ソリが合わなかった前の上司からの情報を一方的に信じていた様子で,私に対し厳しく当たってきていた渦中でのことであり,私は着実にクビになる途を進んでいるのかと初めはがっかりし,また当時は妻が次の仕事に移る過程で私がフルタイムでないと家族全員の健康保険が危機に晒されるため,パートタイムの勧めは固辞しました.しかしよく聞いてみるとその上司自身,2人目の子を出産された時にやはり時間の都合が合わず,4年近くもパートタイムになった経験がおありだそうです.それから20年以上経っているのだと思いますが,業界で名が通る方として活躍されている (しかも御本人も言うように,今よりも遥かに男性中心であったオートメーション業界で女性).あと,これをきっかけに期せずして何件も同様のキャリアを途中スローダウンした話を耳にするようになりました.こうした周りで復帰できた話を聞くようになり,自身のふがいない現状と併せて,スローダウンすることを真面目に検討するようになりました.

ブログ題名にもある通り三十歳過ぎで一念発起したくらいにはキャリア好きですし,キャリアパス的にはまだ色々諦めてませんが,6-3-0歳を率い (というか引っ張り) つつフルに突っ走るフォーメーションに遂にちょっと限界を感じているということかなと思っており,正直パートタイム,或いは思い切って一旦休職するのも検討に入れています.一度休みを入れたことが "復帰" への障壁とならないかが,未だよくわかっていない.一旦何らかの理由で休んだ,という例は米国で結構目にもします.二人の経験多いマネジャに相談した所,全然大丈夫,履歴書に"穴"があってもあまり問題にはならない,と感想は頂いたし,私の場合は明らかに家庭のためのスローダウン (しかもパンデミック中) なので,理解を得やすいかとは期待していますが,とにかくスムーズに復帰するためには何をすべきなのか,それが明らかにならないと舵は取れないかな.

*1:先日触れた通り研修医生活で夫妻ともに時間的負債を溜め込んだと思っており,かといって研修医が終わったこれからも子育て仕事で大してまとまった時間はできないと思う.なのでもし生き永らえればですが,引退後楽しめるのは大事と考えてます.

*2:業界を賑わす存在であった中で,一転会社を閉じるかも?と青天の霹靂で伝えられた瞬間に図らずも立ち会うことになったのは記憶に残ります.

*3:ただし妻は妻で沢山の家事をこなしている.二人共けっこう一杯いっぱいやっている,という自己認識です.

*4:パンデミック下では,essential な顧客企業のために私の勤務先も essential になりはしましたが.

配偶者からみた米国の外科研修医の生活 (育児含む版)

2021年夏に妻の医学研修 (residency) がすべて修了しました.2014年夏に開始し,途中に1年間弱の臨床から離れ研究を行った期間を含み,6年間の一般外科と,1年間追加での分野特定外科研修でした.もはや永遠と思えるほど長い7年間で,しょうじき筆舌に尽くせるのか自信がない辛い経験だったのですが,大変さをもっと発信しても良いのではと親から言われたのが直接のきっかけでこれを書き始めました..そもそも喉元過ぎてこの記憶を風化させるのも悔しく,同じような経験をした配偶者/パートナーの方は数多いるはずなのにネットで意外と見つからず *1,配偶者視点でもっと情報あっても良いでしょうとも思う.ということで,以前も述べたように,忘れないうちに配偶者として異国でみた医学研修を書いておきます.きつかったし,とても多くのことを諦めた期間でした.感情的で恨み節みたいになってしまうと読んで頂く意義もよくわからなくなるかも知れないので,事実を淡々と綴るにとどめようと試みます.

自分の経験した外科研修医の配偶者生活を一言で言い表わすなら,やや特殊なワンオペ,でしょうか.配偶者が家に中々いない,家に居ても心身とも疲れ切っている (なのでワンオペから完全には開放されない).こう書いてみると同じような状況の親御さんはそれなりにいそうな気がしてきました.

    表記について捕捉: 1) "米国では" という記載を多くするかと思いますが,あくまで個人的経験 (と一般的状況についての幾許かの情報収集) に基づいており,米国の事情についての一般論ではないことをお断りしておきます.2) 米国では後述するように医療の専門内容を学ぶ学位プログラムの入学には既に学士を取得済である必要があり,高卒で入学するのが基本線である日本の "医学部" と立ち位置が異なり "医学大学院" と呼んだ方がより相応しいと思いますが,役割は日本の医学部とほぼ同じと言って差し支えないと思うので,日本の通例に合わせて医学部と呼称を統一しています.

まず時系列:

  • 生まれも育ちも日本の私がテキサス州に大学院留学中に,米国育ちの妻と出会い,交際開始後に医学部入学.
  • 4年後,医学部卒業直前に結婚,その1ヶ月後からカリフォルニア州に引越し・妻の一般外科研修開始.
  • その1年後,第一子誕生.妻,デフォルト2週間の産休を3ヶ月に延長することに成功 (ただし年間の長期有給休暇はすべて消費する羽目に).この子の喘息が発覚し頻繁に入院,親も頻繁に体調崩す.3年後,第二子誕生.
  • この間,私は仕事は東京にあり,婚姻による永住権が取得できるまでは旅行者ビザで3ヶ月米国に滞在 --> 日本帰国 --> 渡米,の繰り返し.結婚1年強後に永住権取得し,やっと米国に定住開始.2017年に米国のスタートアップ企業に転職,引続き在宅勤務.
  • 2019年,2ヶ月間の僻地医療研修のため車で3時間離れた山奥に妻が単身赴任.私,きつすぎて一時期,立てなくなる.なお妻は翌年の専門研修の面接も同時期にこなしたこともあり,同2ヶ月の間に休暇0日を達成.
  • 2020年,コロナウイルスのためパンデミック突入.同年,一般外科研修修了.専門研修のためジョージア州に引越し.https://j130s.hatenablog.com/entry/2020/08/23/140456
  • 2021年初夏,第三子誕生.夏,専門研修修了.秋から研修でない業務開始予定

以下,質問応答形式で事実を羅列します.

Q.1日のスケジュールは?

夫妻の生活は第一子誕生と共に劇的に変わりましたが,妻の仕事スケジュールは変わりませんでした.朝はおおむね5時台には家を去っていたように思います.6時過ぎに家を出ていると,今日はゆっくりなんだね,と声をかけていたのを思い出します.病院まで車で20分ほど.

これは日米共通かと思いますが,外科に限らず医科研修の過酷さを最も象徴すると思われるのが英語で言う所の "On-Call",日本語では当直と呼ばれる,超長時間勤務でしょうか.当直の日,研修医は朝仕事に入り,終わるのは翌日の午前中あるいは午後です.米国の研修事情に詳しい記事にもありますが [3],昨今米国の研修医の勤務状況の改善はゆっくりながら進んでいるらしく,連続勤務時間が28時間までと一応規定されているようです.しかし28時間で終えて帰宅してきたことは決して多くなかったかな.もっとも,研修中の上司にあたる高齢の医師達の研修経験は48時間勤務など当然だったそうで,だいぶ改善が見て取れますが.

当直の第1日目,2日目と非当直の日の3日間の大雑把な時間割を図にしてみました.

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  • だいたいこの3日間が1セットになって延々と続くことが多かったように思います.
    • なおこれ平日の場合で,子らの学校がない土日祝は子らが起きてる間はフルに見ることに.米国だと "Have a great weekend", "How was your weekend?" 等週末は素晴らしいものでそれを共有することは日常会話で当然とみなされてそうですが,ワンオペ (でもトゥーオペでもそうだけど) の週末は子らに始まり子らに終わる,他人様と共有して盛り上がる話は大してない,なんだかなあという習慣です.
  • 当直の日は朝早く出て,次の日の昼前後に帰宅するのが主でした.朝は総じて早かった.
  • 帰宅後,仮眠するのですが,疲れすぎてるのか,昂ぶってるのか,仮眠に苦労していました.仮眠の後は子らを保育園に迎えに行き,余力が残っていれば夕餉・風呂を共にしてしましたが,余力が残ってなかったこともまあそりゃ多かったです.
  • 配偶者担当となっていない時間帯が自分の時間です.なにかしてるか,子の夜泣き対応か,寝ているか.
    • 個人的には妻の勤務先のカフェテリアがけっこう美味しく,土日に彼女が勤務だった時は子らとの時間を作るのも兼ねてランチや夕餉は子らを連れて行き勤務中のママと一緒に病院で食べたことも数え切れず.

Q.配偶者目線で,外科研修医はやはり忙しい?

研修医の仕事は拘束時間的にも,精神的にも,非人道的と言って間違いではない気がします.妻は仕事と子らを優先するためにありとあらゆることを諦めた時期だったろうと思います.

  • 時間的には上に述べたように当直含め尋常ではないスケジュールのようです.外科手術はものによると長時間手術室で立ちっぱなしというのもあるらしい.12時間何も飲み食いしなかったー…とか何度もあった気が.家に帰ってきても pager / ポケベルはよく鳴ってるし,常にコンピュータで電子カルテを見ていたし,しょっちゅう電話していた.事務作業も多そうであった.その上で年1回の国家試験準備もしていた.更に家で起きてれば子供の食事の世話等色々やってくれた.
    • 産後半年間くらい?母乳を昼夜およそ4時間おきに絞って冷凍していて,勤務中・手術中も例外でなく,タイミングや搾乳する場所に苦労したらしい.この現代においてなお,授乳する外科医の待遇は病院内で整ってなかったとのこと.
  • 精神面.どんなに自分が疲労してようが,患者さんには生死の境にいる方も多い.患者さんが亡くなったと落ち込むのも何度も見ましたし,患者さんの苦しみを家庭に持ち込まないようにしてたように思いますが,どうしたって漏れ出てくるもの.大変な患者さんを看ている日に,心持ちが穏やかになるよう気を遣ってあげるのは配偶者の役割と思ってました.そして家に帰ってくれば小さい子供がいる (そりゃかわいいですが世話は焼けて別なストレス溜まる.典型的な夕方には,帰宅後最初5分間溺愛を見せるものの次の5分後には叱りつけている).相当に溜まる状況だったのかなのかなと思います.
    • ある日彼女のメンター的な外科医から聞いたという言葉,"外科医にとってはいつものきつい1日かも知れないが,患者さんにとってみれば今日が人生最悪の日かも知れない",というのを思い起こして気を奮い立たせてるのをよく見ました.
    • なんにせよ私は私でワンオペで溜まりますから,まあそれはよく喧嘩しました.
    • 研修四年目くらいから子供が産まれる同期生も出てきたものの (2010年代のカリフォルニアの大学病院でなお,研修医が産休に入ることを悪びれることなくリクエストできる労働環境ではなかったらしい),研修一年目最後で一人産まれた妻は基本,研修期間の大半を妊娠・子育て兼ねたことになります.同期生が近場のワイナリー (有名なナパ・ヴァレーはじめ地場のワイナリーが結構あった) に誘っても行かなかったことも多い.私は行ってきなと言ってもこちらの気を遣ってくれてしまっていた.とかもあり息抜きが難しかったはず.
    • 近場で研修医同士が集まる時には,行ける時には漏れなく行ってもらうようにしてました.極めて大事な息抜きかと.私 (と子ら) もよくついてったけど,みんな苛烈な仕事してるのに,そういう場でにこやかにできるくらいの余裕を保ってる,半端ない人達だなと感じずにはいられなかったです (酒の力もあるのでしょうが).

Q.休暇は?病欠は?

  • 丸1日の休暇は,平均で月に4日間くらいあったという感覚です.実際にはそれより休暇が多い/少ない月もありました.研修医同士が相談して翌月の日程を決めていたようで,一旦決まると余程のことがない限り変更はできてなかった印象.
  • 1年間で合計1ヶ月のまとまった有給がありました.それだけ聞くと多いようにも思えるかもですが,まあそれでも年間の休暇日数は普通の仕事より少ない.事前交渉で承認されればそれをどう小分けにするかは自由だったようです.
  • 妻の場合,体調不良を理由に欠勤したのは7年間で数日間あったかどうか.2日間程度ではなかったかと思います.7年間健康体だったわけでは決してなく,妊娠出産を除いても,寝つけないほど体調を崩していたことが何晩もありましたが,こらえこらえ出勤していたようです.

Q. 研修期間の出産子育て状況

(この箇条書きは友人の指摘を受けて追加)

  • 研修中に出産するのはありなのか:あくまで身近な例しか知りませんが,妻の医学部友人と,研修の同期や近い年次では,少ないけど研修中に子を産んでる人達はいそうです.外科は研修が5年のようですが後半に出産する人の方が前半より明らかに多かった.前述したように,産休申請すると良い顔されない風潮はあるらしいものの,否定もされないらしい.
  • なぜ研修中に子を産み育てたかったのか:研修と出産・子育てとの両立は大変になるのは容易に想像がつくので,なぜそうしたのか.私達の場合,妻の希望で,3人欲しいので早目に産み始めたかったようでした.研修医の子育て事情も十分リサーチ済のようでした.配偶者等周りのサポートがあればやれる目算があるんだなというのが分かりました.一方私の方はそこまで子が欲しいという希望も,子育てやりきって見せるという覚悟も当時はなかったんだけど,強い思いと覚悟に反対する理由も思いつかなかったので,協力します!という感じだったです.大変さの予測を見誤ったなとは後で思いましたが,後悔はないです.ただ,もし配偶者の方に仕事等いまやってることをスローダウンしても良い準備・環境がなければ,お勧めできないかなとは思います (私は 97% 在宅勤務なのと,勤務先のマネジャ達の理解があるのとで https://j130s.hatenablog.com/entry/20190126/p1,必要な時にスローダウンが許される職務形態でした).

Q.私達が得ていた子育て支援

  • 共働きのため,子らは産後数ヶ月で保育園を開始しました.
  • 日頃からベビーシッターを複数人お願いしていました.両親とも子を看れない事態があってはならないので日頃から慣れたベビーシッターを確保しておきたかったのと,ベビーシッターがバックアップ無しに一人だけだとまずいので複数・定期で依頼してました *2.ただ,経済的に贅沢も言えないので,一週間で計10時間以内くらいにしていました.
  • 夜中や早朝に子守りが必要な場合,隣の市で大学院に通っていた妻の妹も可能な時は助けてくれました.他には家族は近くに居ませんでした.産前産後に見かねた妻の祖母が日本から単身来て住み込みで助けて下さったのは幸いでした.
  • 日曜の教会では,礼拝中は子らを預けられ,礼拝後の昼食時は参列者が常に見て下さっていて,気を抜くことができました.教会員の中には夜中預かってくれる方もいて,1,2回お世話になりました.

Q.研修プログラムによる配偶者向けのサポートはあるのか

  • 配偶者グループがあり,おそらく研修プログラムから少し予算も出てたはず.割と活発に色々やってたみたいです.
  • しかし私は仕事してるので殆ど参加できず.でも,研修医の配偶者という特異な状況を分かり合える人達に話ししたければ話できる場がある,というのが有難かった.第一子が産まれた直後はグループ内有志が食事を届けてくれて嬉しかった.

Q.研修プログラムによる外国人向けサポートはあるのか

日本語で書いてるので,読者の中には今後米国の研修への参加を検討されている日本の方のうち言語等サポートが気になる方もいらっしゃるかもわかりませんが,これは分かりません.妻の外科研修プログラム同期生は知る限り配偶者含め全員米国育ちの米国籍人で,私が唯一米国育ちで無かったと思います.そのような環境なので外国人向けサポートを気にしたこともなかったです.

Q.研修医の給与水準は?

  • 医者と言うと給与が高いというイメージがあるかも知れませんが,研修医は妻の場合,いわゆる日本でいう大学院卒新入社員程度の給与かと思います.それでいて,月間の勤務時間数でいうと通常の仕事人のそれに比べ2倍か3倍なので,時給で言うとおそらく最低賃金以下となります.
  • 研修プログラムは一方では教育で,実務を通して理論の実践方法を学ぶいわゆる OJT という位置づけでしょうか.で,研修医達が散々不平を言っていることですが,もう一方の側面はいわゆる "cheap labor",安い労働戦力という見方です.研修プログラムを運用する病院の多くが,研修医がいないと臨床が成り立たないほど研修医達に依存している,なのに最低以下の賃金・過酷な労働環境におかれている,という批判かと思います.医師当事者でない私が唯一コメントできるのは,研修医にストレスかかりすぎると家族にも負担がかかるんです,ということか.

Q.改めて,大変だったことは?

  • とにかく妻は仕事で家に居ることが少なく,家族も周りにいない (隣市にいた妻の妹は頼りにはさせて頂いたが,彼女も忙しく,親に頼るとかとはちょっと違う),極端なワンオペの一種,という立ち位置でしょうか.有事にはほぼ自動的に自分がすべてを止めて対処にあたる."誰にも頼れないんだ" という気持ちは,それほど悲壮ではなかったけど,持ってた気がします.
  • 第一子が2歳になるまでとかく病気がちで,隔月で ER (救急) に連れて行っては数日入院するレベルで体調崩してたのを思い出します (今ではすっかり強くなってくれましたが).妻は医者ですから容態や対応について指示を貰えるのは有難かったものの,そばに居ないことが多いし (ただ,彼女の勤務先の病院の小児科にかかってたので,勤務中にしょっちゅう小児病棟に来てくれたし,手術等がなくデスクワークの時はコンピュータ持って入院中の部屋で仕事しててくれた).ER や小児病棟ではもう顔見知りに.トラウマというのか,夜中に息子が咳込む度に,あ〜またか..と何か胸が締め付けられる感じに今でもなってしまいます.子が可愛そうというのが第一義ですが,あーまた自分のこと何もできなくなるのか,というのも正直ある.

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    入院中.治療の都合でずっと食べさせてもらえずやっと食事をもらって嬉しかったらしい.何にせよ,子が明るくしてくれるのは救い.
  • 最初の子の時はすべてが初めてなのできつかった.不思議と,二人目のときは労力が二倍か相当に増加してるわけだしもっと大変と感じて良いのに,そこまで大変だった記憶はない (立てなくなったことはあるが).慣れか.
  • 妻が Lake Tahoe という2時間離れた山の上の美しい湖の街に単身赴任になった二ヶ月間,一人で可愛そうだということで,毎週末子らを連れて彼女のアパートに行っていました.運悪く仕事の繁忙期と重なり,ある日立ち上がるのも辛くなってしまいました.その一ヶ月間あまり機能しなかった記憶があります.
  • 慣れたとは言えワンオペと仕事で手一杯で,子供達に色々やってあげられたとは到底思えず.
  • 子らを一人で面倒見るワンオペ,当初の想像を超えて,自分のことができなくなりました.SNS 全盛の時代,他人のやることが羨ましく見える.そもそもが仕事大好き・勝手気ままな性格で,家族のために自分を顧みないタイプではなかった.でも妻を支えるのは結婚の時に約束したことでもあり,葛藤こそしたけれど (今もしてるか) 不思議とそれが当然と思えてはいます.趣味の時間とか仕事の出張とか,とにかく我慢するのは当然になっている.妻の仕事がやや落ち着くのでひと山越えた感があるとは言え,こらが小さいうちは自分の時間が限られてるのは変わりはなく,我慢路線は継続かと思ってます.

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    ジョギング可能な stroller / ベビーカー.1人乗りも2人乗りも持ってます.初めはワンオペ中にいかにエクササイズするかという苦肉の策として買ったら,家の周りが散歩/ジョギング道が整備されている幸運もありうまくはまり,すっかり救世主に.

以上,文才の無さに辟易・落胆してますが,よろしければ感想/ご指摘等あればコメント欄にぜひお願いします.

参照した外部サイト
[1] A Day In The Life Of A Medical Spouse (studentdoctor.net)
[2] Final stretch of a life in a medical resident's family (born2b-loved.blogspot.com)
[2] 米国研修医の働き方改革、「振り子の揺り戻し」の段階へ (m3.com)

*1:[1] と,あとは家族が読めるように英語でやってるもう一つの拙ブログ [2] くらいしか見つけられてない.

*2:ベビーシッター確保はそれはそれで別トピック.大学生等若い方は元気で動けて子らに年も近いのが良い反面,信頼できる人が少ない!すぐ居なくなりました.私達の経験では20人雇った中で3ヶ月以上続くのが3人くらいか.そうなってしまう落ち度が私らにあったとは思いたくないけども.なお残った3人は良い友達として関係を続けさせて頂いてます.あとやはり大人の方は信頼できた.

音楽家の行動と作品

土曜に小山田氏の報道を聞いて気分がドロドロした週末が明け,氏の楽曲提供の件が色々放送/配信停止の報."デザインあ"の放送休止はすぐにでも痛い.子らだけでなく私も楽しみにしてました.番組への音楽の貢献は大きそうだけど…何とか再開心待ちです.宇都宮市出身とされるカヒミカリィがオープニングうたう版ちびまる子ちゃんも小山田氏楽曲にてネット配信停まったそう.

音楽は人となりが反映された結果産まれるものだよねと思うことにしてるので,個人的に受け容れられない過去を持つ人の作品は例え好き・既に購入済でも,再生しないようにしてます.脳内で鳴りそうなのも頑張って抑える (やり過ぎ?作品は個人と切り離れてるから良いとか色々見方はありそうですが).今回は対象のいじめ行動がティーネイジャーの頃のことということで,世に出てる作品を作っている時には既にその"事件"は起こし済で,そのような行動を起こす気持ちも,起こした時の心象も,心に持ちながら作った作品を私達は楽しんでいたことになる.ちょっと吐き気と言うか,気持ち悪くなる.

今回は御本人も認めてるし報道は真実らしく,これまで反省して行動してきた風も無い様子なので,社会人としてアウトかと.一消費者として,本来ならいつも夢見せてくれてありがとうと言いたかったのに,残念すぎる.これを機に考えて欲しい.影響・資金力に加えてアーティストとしての想像力があるはずなので,迷惑をかけた方達への影響を想像して償うこれからにしてはどうかと思います.

米スタートアップ企業で"左遷"された話

スタートアップ企業に就職してほぼ4年目経ちました.事業は好調で先日二回目の大型投資で40億円弱を確保,勢いづいていて言うことない感じです.一方自分はというと,過去1年半の間に開発部門のリーダー職から平になり,今回遂に心機一転を期すという名目で部署変えを言い渡されました.左遷と言うと閑職に就くイメージですが閑職を置く余裕はまったく無い中で,個人的には左遷と受け取ってますが,一方で1年半前に配置された上司との関係に苦労してきたので,その点では本当に気持ち入れ替え再出発です.クビになったわけではなく,ある意味貴重な体験です.


1年半前までは開発チームのリーダーとして,製品リリースを担い,他チームとの接点となるなど中間管理職的な役割でした https://j130s.hatenablog.com/entry/2020/01/19/161922.人事上のマネジャではないのでチームメンバの評価や色々な面倒を見ることはなかった.全社員もまだ30名程度だったのかな,まだチームや役割分けも曖昧さが多く残っていた.私がコードを書くことは自分の仕事時間の2割くらいしかなかったけれど,当時の記録をみると1ヶ月に200程度の Merge Request (GitHub でいう pull request.ソフトウェアの変更案) レヴュをしていたようです.小さい子2人の面倒を見ていることもチームに分かっていて,いつ寝てるのかと心配してもらえた一方,j130s のレヴュが終わらないと次のタスク行けない,と指さされたことも何度かありました.良くも悪くも開発チームの中枢でした.


事態が変わったのは1年半前.この頃からチーム構成・役割が良くも悪くもまともな企業化してきて,私が居るチームにもマネジャを置くことになり,唯一手を挙げた他チームの人がそのままマネジャに就きました.私が誰より一番長くいたチームだったのでマネジャ職に興味があるかは経営層から一応聞かれましたが,技術と寄り添って今後生きて行きたく,人事マネジャ職をうまくできる自信も興味もないためお断りしました.また,多分ですが経営陣も,私の議論や交渉能力が劣ると思っていたはずで,私が管理職やりたいとか言い出さなくて安堵したのではないかと思います.


この新マネジャ (仮に T 氏) とは何度かそれ以前に仕事をする機会があり,"Get things done" 仕事を前に進める力が凄いなと思っていました.一方技術に関するこだわりというかむしろ狭い視野と強い拘りにも気付いていて,私はうまく行かないタイプと既に感じていました.また私に意見を聞いてきた経営者も,T が強すぎる意見を持つ点を懸念していたようだったし,また当時 (も今も) 開発の中心にあるオープンソースフレームワークがあるのですが,私はそのフレームワークのコミュニティで名が知られており,社内でも当然頼りにされていましたが,異なる界隈出身の T はなんでしょう,肩身狭い思いをしてるのかはわかりませんが,敢えてそのフレームワークに対し"牙を剥く"ところがあったしもして,正直めんどくせえなこの人,と思ったのも事実.なので,この人の就任に対して NO と言うことも私は出来たのですが,前述のとおり目の前の問題を解決し仕事を前に進めることができるのは既に実証済みだったし,一方でリーダー役として私は自身の前に進める能力に不満があり申し訳なく思っていた所もありました.また,苦手なタイプだからこそ克服できるか興味がありました.なお T は体も縦にも横にも大きい白人で,狩りや釣り,強い酒が趣味,強い口調と勝ち気な性格,それらすべて偏見含めたいわゆる強い米国人タイプと勝手に思っています.これらを併せて,T のマネジャ就任を歓迎しました.


蓋を開けると予想以上にうまくいかなかったわけですが.何しろ技術的会話では主張が通らない.お互いが主張したい点を展開し合い,最善案や妥協点を見つけていくのが技術の議論と思いますが,私の出す案に反論する T の口調が強すぎ,どうしても怯んでしまいます.何度も試しました.自分も強く言う方法は,なぜか感情的になってしまい相手の口調に火を注ぎました.逆に物静かに冷静に話す方法は,うまく行けばはまりそうな手応えはありますが,英語自体や話の組み立て方に慣れと熟練が要りそうで,毎回うまくはいかなかった.そうこうしているうちに,いつしか技術の議論であまり参加してこない,と受け取られていることが判りました.私としては単に強すぎる口調に手を焼いていて,発言をしそびれていただけなのですが,発言が少ない --> 技術・設計論に関心がない,と勘違いされたか,或いは技術に対する考えの違いに嫌気がさしたのか,とにかく彼主催の設計ミーテイングに段々と招かれなくなり,また他メンバへの助言役として名指しされなくなっていきました.そうなるまでに半年とかからなかったか.


頼りにされなくなると,T が回してくるタスクがどうも優先度・重要度が低そうな作業が多くなりました.なお公平のために書くと,私は小さい子2人の面倒を見,突然仕事を休くこともたまにありました.たまに,というのは2020年は covid で,マスク着用等の学校の努力のおかげもあり子らが奇跡的に健康だったので,子らの体調を理由に仕事を休むことは月に2日も無かったはず (2020年より前はもっと頻繁だった).でも勢いあるスタートアップ,締切の要件は厳しくなる一方で,時間の融通の効く若手社員への依存が一気に増えた時期のように思います.そんなわけで重要度が低い作業が多くなり,マネジャと頻繁にやり取りするのを何故か申し訳なく思い,また個人的に好かないこともあり,密な連絡を怠りました.これが決定的にまずかった.結果として,締め切りについて誤解が起きまくり,j130s は仕事が遅すぎるという印象を持たれました.私の主張は,締め切りの共通認識が無かったということですが,にしても私から明確にしてもらうよう要求すべきだった.


といった顛末で,もう T のチームに居るのはつらすぎると思い始めて数ヶ月たち,いっぽう私生活では3人目の子を授かり (!),育児のため時短勤務中です.そこへ来て配置転換の指示.新たなチームは,品質関連なので,software engineer として張ってきた身としては,微妙です (私は品質部門の作業自動化に興味がありますが,software engineer 特にデキる人達の中に品質部門を蔑む人達がいるのも見てきたので).少なくとも,使えない奴と現マネジャに判を押されて望んでなかった部門に移されるという意味では,左遷なのかなと.
品質部門のリーダとは息を合わせて仕事してこれたと思っているし (白人,超長い髭で,最初こえーと思ったんですが,その実すごい堅実で品質部門向きな人だった),書いたように自動化で楽しめる部分はありそう.品証の心構えぜんぜん無いですが,まあやってみます.

義弟妹との関係,異文化編

米国育ちの妻と交際・結婚を経て10年以上になる.妻には妹が2人.またそれぞれに配偶者や交際相手がいる.日本で30年以上育った者として義妹弟との関係はどうか.他の家庭はわからねいけど自分の所は今の所こうだというのに触れてみる.

妻ら姉妹はとても仲が良く,地理的に離れ離れだが毎日のように Text message (電話番号に宛てて短文を送信できるサービス) や動画通話をしているし,SNS もフォローしあっている.話し込むこともあるように見える.社会問題とりわけ人権や医療に関する意識がとても高く,常識人であろうという意識が強いように各々見え,そうは言わないがお互い励まし合い・助け合いながらどこか切磋琢磨し合っている.特に他人種混合の米国では日系人として育つという文化背景を共有していることは姉妹間の繋がりを一層強くするのだろう.まあ所謂馬鹿話も多いが.食の趣味もかなり共通してそう.会えば常に話が尽きない.主張を表明する米国人らしく懸念があればはっきり伝えたりもするが,そこは姉妹ならではなのか,遠慮も多々ありそうというのは年月を経て見えてきた.傍からだけどとても好ましい関係にあるように見えるし,実際そうだろうと思う.

では異文化育ちで,姉妹にとっても外様の新参者である私との関係はどうか.私は悪くないと感じている.妻や子らと外出する時も,食事も,夕食後子らが寝た後の大人の時間も一緒.今日時点では私達夫婦だけ子供がおり (しかも3人),むしろ妹達に何度もヘルプにやって来てもらっている.CA から GA へ北米大陸横断の引越しをした時は https://j130s.hatenablog.com/entry/2020/08/23/140456,コロナ禍で在宅だったこともあり1ヶ月一緒に居てくれて引越し梱包の大半をしてくれた.今回も第三子が産まれるにあたり,甥・姪に会うのは勿論だが,出産で私達夫妻が病院に詰める際に息子達の面倒を見てくれることになっている.仕事をきちんとやることへの意識が高く,お願いしたことの完遂具合が半端ないし,必要ならもっとやるよと常々言ってもらえる.とても感謝している.そんなだから,妻は勿論のこと,私としても彼女らが助けが必要な時には優先して都合を付けないとと思っている.

わざわざ記事にするくらいだし書きたい点はある.ここ数年気付いことだが,会話がままならない.私に興味がなさそう或いは興味がないように振る舞っているのか,必要なこと以外は一切何も聞いてこない.妻と一緒にいるから会話に入れてもらえているだけと感じる.食卓で会話していても一人抜け二人抜けして私とだけ残ると私に話しかけるではなくあからさまに席を立っていく.逆に私からは話しかけるようにしているが,応答はしてくれるものの長続きしない.或いは長続きする場合は,他の姉妹に向けて会話を続行することが多い,私がその話題の口火を切ったにもかかわらずだ.また,これは米国で会う他の多くの人にも言えることだが,話している際に視線を中々合わせない.1ヶ月2ヶ月一緒にいようがそれは変わらなかった.なお注釈しておくと私は英語であまり不自由しておらず,何もしらない日本人からは英語ネイティヴ話者に見えるレベル (まあ英語は何度も泣きながら頑張ってます).愚痴になってしまったが,まあ妹達は20台後半で私は40台中盤と世代が異なれば,文化背景も違うし言語も通じるとは言え不自由さが目に付くだろう,いかに大好きな姉の夫とはいえやり難さ満載なのかも.20歳台後半独特の全能感や,これからのキャリア・生活に対峙する不安から来る張りのようなものもあるかも知れない.あと5年も経って少し良い意味で丸くなった時に義妹達とどういう関係でいられるか,長い目で楽しみにすることにしている.